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第6話 白いごはんと、白いたばこと、白いイヤホン


 「大河(たいが)、大河」


 母の声で目が覚めた。どうやらあのまま机に突っ伏したまま、教科書の上で寝てしまっていたらしい。身体が冷え切っている。俺にとっては珍しくもなんともない、しょっちゅうのことだった。


 窓の外ではもう朝日が射し込み、小鳥の鳴き声が響いている。


 背中を伸ばすと、肩がぎしっと鳴った。

「うおあ、背中がいてぇ」

「またこんなところで寝て。勉強もいいけど無理しないでよ」

「ありがとう母さん、でも大丈夫」


 声に少し掠れが混じる。

 リビングでは、妹の瑞希(みずき)がすでに座って朝ごはんを食べていた。


「お兄ちゃん、おはよ。顔にあとついてるよ」


「おはよう瑞希。……あーほんとだ。やっちまった」


 鏡に映る自分の頬には、机の跡がくっきり残っていた。

 母が味噌汁をよそい、白い湯気が立ち上る。目玉焼き、味噌汁、白ごはん。そんなありふれた朝食に心が落ち着く。


 母子家庭の我が家では、家事はだいたい母さんと瑞希が分担している。俺は学校とバイトと勉強に時間を全力投下しているからか、母も妹も俺が家事をしないことには特になにも言わない。

 まあ、単に俺のへたくそな料理を食べたくないだけなのかもしれないが。そういえば以前、洗濯をした時に柔軟剤を入れ忘れてごわごわになった服たちを前に妹に説教されたこともあったっけ。


 母がテーブルに味噌汁を置き、湯気がやわらかく立ち上る。

 白い湯気の向こうで、瑞希が味噌汁を飲みながらこちらを見た。


「ほんとお兄ちゃんってさ、学校とバイトと勉強だけだよね。彼女とか作んないの?」


 冗談めかしたその声に、母が「ちょっと瑞希」と笑いながらもたしなめる。

 俺は味噌汁のわかめをすくいながら、肩をすくめた。


「俺は東京の大学に行くのが目標だからな。そんなもんにうつつ抜かしてる場合じゃないんだ」

「ふーん、つまんない人生~」

「お前な……」


 瑞希はため息をつきながらごはんを口に運ぶ。

 母はそんなふたりを見て、苦笑しながら箸を置いた。


「でも、あんたらが元気でいてくれたらそれでいいわ。……ほんと、風邪だけは引かないでよ」

「わかってるよ母さん」


 白ごはんの温もりと、母の声のぬくもり。

 俺はその両方を胸の奥に流し込みながら、今日も家を出る準備をした。



 * * *



 俺は通学路の道を歩きながら、マフラーを巻き直す。

 風が冷たく、もう冬の入り口だ。いつか桜井さんに貸した黒いジャケットを羽織っているとよりそう思う。


 やがて学校に着くと、教室の黒板の前で足が止まった。


 ――日直当番表。


 俺の吉野大河の名前と、桜井澪(さくらいみお)の名前が並んでいる。


「マジか……」


 声が漏れた。

 よりによって。あのあと彼女と顔を合わせるのはなんとなく気まずい。

 けれど仕事は仕事だ。授業後の黒板消し、チョークの補充、授業の号令、プリント回収、日直日誌の記入等々。

 ほとんどの仕事は必要以上に話さなくても、やり過ごせるはずだ。


 ……ただ、放課後の教室清掃だけは、どうにも気まずい。



 * * *



 授業が終わり、クラスメイトたちが次々と帰っていく。

 教室に残っているのは俺と桜井さんだけ。


 西日が差し込む中、静かなチョークの粉の匂いが漂っていた。


「吉野くん」


 やがて彼女が口を開いた。

 その声は小さく、震えていた。


「あの日は……急に泣いちゃってごめん」

「あ、いや別に……」


 言葉が宙に溶ける。黒板を消す手が止まり、無言の時間が流れた。

 気まずさを押し切るように、俺は訊ねる。


「その、なにか俺、気に障ることしたか? だったら謝るけど」


 彼女はすぐに首を振った。


「違うの。ちょっと家でいろいろあって」

「家で?」

「うん……」


 小さく息をついて、桜井は言葉を続けた。


「私、夜に家を出てたのが、お母さんにバレちゃって」

「え?」

「お母さんが雇ってる秘書の人に、私の行動を見張らせてたみたいで」

「……まじかよ」


 彼女は苦笑いのように唇を結んだ。


「うん。だから最近、夜のコンビニに行けなくなっちゃったの。それが原因かな」

「そっか……まぁ確かに夜の外出は危ないし、しないに越したことはないけどさ」

「……うん」

「ま、そんな単純な話でもないよな」


 黒板の文字を消す音だけが響く。

 しばらく沈黙ののち、彼女がぽつりと言った。


「コンビニに行ってたのは、息抜きだったの。勉強とか家のこととか、全部から少しだけ離れられる時間だったのに」

「そうか……」

「でももう、お母さんが怒ってるし。秘書の人に私の行動を報告させてるみたいで」

「そうか」

「だからごめんね。これからは、もう行けなさそう」

「……そうか」


 その声には、あきらめと悔しさが混じっていた。

 俺は何も言えず、ただうなずいた。



 * * *



 その夜。


 ピッ!


 レジでぼんやりとバーコードをスキャンしていると、客の声に我に返った。


「お兄ちゃん、そのたばこじゃないよ、180番のやつだよ。白のパッケージのやつ」

「あ、すみません!」


 慌てて商品を取り替えると、お客さんは笑って「ありがとうね」と去っていった。

 息を吐くと、店長が近づいてきた。


「珍しいね、吉野くん。君がミスするなんて」

「すみません、ちょっと考え事してて」

「また、あの子のことかい?」


 その言葉に、思わず手が止まる。

 店長は柔らかく笑って、「青春だねぇ。僕にもそんな頃があったよ」と言った。


 俺は苦笑いで返す。


「いえ、そんな大層なもんじゃないです」


 閉店作業を終え、タイムカードを押す。


 着替えを終えて事務所を出ようとしたとき、落とし物ボックスの前で足が止まった。箱の中には白いイヤホンが、あの日と同じように箱の中で眠っている。


 しばらく見つめて、俺は小さく息を吸った。


「店長、このイヤホン……持ち主、たぶん分かりました。俺、届けてきていいですか」


 店長パソコンから目を離すと、しばらく黙っていたが、やがて微笑んだ。


「うん。持ち主に、よろしくね」


 それだけ言って背を向けた。

 俺は白いイヤホンをそっと握りしめ、外に出た。

 冷たい夜風が頬を刺す。ペダルを踏むたびに息が白く散った。


 坂の上――、彼女の家の灯りを目指して、俺は自転車を走らせた。


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