第64話 夜の生徒会室と会長の甘いコーヒー
生徒会室の扉を開き、明かりをつけた瞬間――
俺は、思わず言葉を失った。
そこには、堂々と椅子に腰をかけた霞汐乃がいた。
『かくれんぼ』だと言っておきながら、隠れる気などまるで見受けられない。
「――みーつけた!」
俺の声に、霞さんはようやく顔を上げた。そして、余裕たっぷりに微笑む。
隠れているというより――
“待っていた”。
その表現が、あまりにも自然だった。
ゆったりと足を組み、湯気を立てるコーヒーを片手に。
まるでここが最初から“指定席”であったかのように。
キーンコーンカーンコーンと部活動の終了の鐘の音が鳴る。
そう、時刻は十八時半。
「……まさか本当に」
声を漏らしたのは桐崎さんだった。
彼女は茫然としたまま一歩踏み出し、信じられないものを見るように眉を寄せる。
「ちょっと待って。会長、最初からここにいたんですか? 本当に……ずっと?」
「もちろんだ。最初からずっとだ。もし疑うなら、この部屋の防犯カメラを調べればいい」
当然のように言い切る霞さんの声は、いつもの冷静さを保っていた。
「な、なんで……? だって、ここは……スタート地点で……!」
「だからこそだ」
俺が、ゆっくりと言葉を引き継ぐ。
「まさか、今いたばかりの生徒会室に隠れるわけがない――って、俺たちが思い込むことがわかってたんだろ」
「ああ。しかし、よくこの短時間でたどり着いたものだ。私はてっきり、もう少し時間がかかると思っていたのだがな。校内放送を使うという大胆な手段も驚いたものだが」
霞さんの声には、わずかに愉悦の色が混じっていた。
俺は部屋の中に歩みを進めながら、ゆっくりと解説を始めた。
「今思えば、最初にこの部屋を出るように言われた時点で違和感はあった。
ただ“隠れる時間を作りたいだけ”なら、俺達をあのままここで待たせればよかった。なのに、わざわざ会長自ら俺達を廊下に出した後、ドアノブに掛け札まで下げていた」
「なるほど」
「“ただいま外出中”の札は、この部屋に人が入らないようにするため。つまり――会長自身がこの部屋に戻る前提だったってことだろ」
「その通りだ」
「もっと言えば……あんたが窓を開けたタイミングもおかしかった。換気のため、ってことで一見違和感はないように見えるけど。あれは……三階の非常階段から降りてきた後、鍵のかかったこの部屋に入るために必要な工程だった」
「そうだ。よく気付いた」
霞さんはティーカップを軽く揺らし、カラン、と音を鳴らしてからそう言った。
「……全部終わってから気づいたことだけどな」
「ともかく――私の負けだな」
しばし、沈黙が落ちた。
その沈黙をやわらかく破ったのは、桜井さんだった。
「でも、これはオリエンテーション……って言ってました。
霞さんはそもそも勝ち負けじゃなくて、私たちが協力して、この答えにたどり着くことを期待してたんですよね?」
その言葉に、霞さんはゆっくりと目を細めた。
「ああ。君たちの顔を見ればわかる。……どうやら、私の狙い通りの成果は得られたようだ」
そしてもう一口だけコーヒーを飲み、カップをそっと置く。
「とはいえ、私の負けは負けだ。――約束通り、一人一つずつ。
何でも、私が願いを聞き入れよう」
その言葉に、場の空気が一変した。
桐崎さんは息を呑み、
稲葉はメガネを押し上げ、
桜井さんはそわそわと桐崎さんを見る。
俺は観念したように息を吐き、口を開いた。
「……副会長、譲ってもいいぜ。桐崎さん」
「え?」
振り向いた桐崎さんの目が、大きく揺れた。
「副会長なんて、やっぱり一番熱量があるやつがやるべきだと思うしな」
「吉野くん……」
彼女は拳をぎゅっと握りしめ、俺の目の前まで歩み寄ってきた。
その歩幅には迷いがなかった。
「――馬鹿にしないで!」
「!?」
「今回、会長を見つけられた一番の功績は……君のおかげでしょ!?」
「え?」
思わず間抜けな声が出た。
そこで、稲葉がゆっくりと眼鏡を押し上げた。
「……僕もそう思います。吉野くんの最後の閃きがなければ、時間内に辿り着くことは到底できませんでしたからね」
「そうよ!」
桐崎さんが続ける。
「それに……君なりにチーム全体のことを考えて動いていたと思うわ。最初はその、強く当たってごめんなさい」
そう言うと、彼女は深々と頭を下げた。どうやら彼女は裏表のないさっぱりとした性格のようだ。
「桐崎さん……」
「君の昔がどうだったとか……そんなこと、今は関係ない。今の吉野くんは――本当に努力で変わろうとしてる。……なのに私はただ、副会長に選ばれた君に嫉妬してただけ」
「頭を上げてくれ! 桐崎さんがそんなだと……調子狂うし!」
その声に、桐崎さんは顔を上げた。
その目は、最初に見たときよりずっと素直で、澄んでいた。
俺は息を整え、霞さんの方へ向き直る。
「……最後のは完全に偶然だよ。霞さん、俺たち……見事にあんたに踊らされてた」
「ふ」
霞さんは、静かに小さく笑った。
その表情は、他人へ肯定を示すときだけ見せる、とても珍しいものだ。
俺は、その意味をもう理解できるようになっていた。
霞さんはコーヒーカップを持ち上げ、最後の一口を飲み干すと、満足げに息を吐いた。
「――今日のオリエンテーションの目的は、我々が“チーム”になること。まだ完全とは言えんが……大部分は達成されたようだな」
生徒会室の空気が、少しだけ柔らかくなる。
桜井さんが、安心したように胸に手を当てた。
稲葉は、眼鏡越しに霞さんを静かに見つめる。
桐崎さんは、まだわずかに悔しそうにしながらも、どこか晴れたような顔だった。
そして俺は――
この瞬間、はじめて本当に“生徒会の一員”になれた気がした。




