第60話 あの人だったらこんな時は
俺が嬉しさの余り稲葉に抱きつこうと、半ば冗談で腕を広げた
――その瞬間だった。
ギィィ
女子トイレの扉が開き、桐崎さんと桜井さんが同時に姿を現した。
「ちょっとあんたたち。なにしてんの」
「た、大河くん……?」
冷えた視線が、氷のように俺の背中に突き刺さる。
「あ、いやこれは誤解だ!」
思わず背筋が伸びる。
稲葉はといえば、いつもの落ち着いた声でぼそりと言った。
「……吉野くん。僕はそういった趣味はありませんよ」
「だ、だから誤解だって言ってんだろ! てか、お前は事情知ってんだろ!」
桐崎さんはため息を一つ。
「……ほんと、なんでこの人が副会長になったのか理解に苦しむわ。会長の目もちょっと疑わしいものね」
刺さる。刺さるわ、その言葉。
桜井さんは苦笑しながらも言った。
「も、もう……二人とも、そこまでにしよ」
(ああ……桜井さんの優しさが目に染みる……)
その直後、稲葉がメガネをクイっと上げて言った。
「それより、そろそろ十分経ちますね」
スマホのアラームが、ちょうど音を鳴らす。
――ピピピピッ。
俺たちは思わず顔を見合わせた。
我らが生徒会長こと霞汐乃を探す、“かくれんぼ”の時間が始まった合図だ。
「よし、四人とも準備はいいか?」
改めて俺は全員に視線を向ける。
桜井さん、稲葉はうなずいたが、桐崎だけは……不満げに眉を寄せながら腕を組み、冷たい声で言った。
「そんなのはいいから、時間惜しいわ。行くわよ」
そう言うやいなや、生徒会室前の廊下をすたすたと歩き出す。
「あ、おい! 霞さんのルールを忘れたのかよ! “俺を中心に、全員の同意で行動”だぞ!」
呼び止めた俺に、桐崎さんはピタリと振り返り、鋭い目を向けた。
「じゃあ、なにか“宛て”はあるのかしら、副会長さん?」
「……いや、それはないけど」
言い返せずに口ごもると、彼女は大げさにため息をつき肩をすくめた。
「でしょうね。吉野くんはどうせ見てなかったと思うけど――」
その前髪の奥の瞳が冷静に光る。
「会長は廊下に出たあと、最初に“階段のほう”へ向かったわ。手がかりがない以上、まずは会長が“降りた”可能性の高い一階から探すべきよ」
「え、どうして霞さんが下に“降りた”ってわかるの?」
桜井さんが素直な疑問を口にする。
「私たちが廊下にいた角度じゃ、階段に向かったのはわかっても……上に行ったのか下に行ったのかまでは見えなかったよね?」
そのとき、稲葉が丁寧に補足するように口を開いた。
「それはきっと“足音”でしょう。ここは二階ですから、階段を降りる音と上る音はそこそこ違います。桐崎さんは吹奏楽部出身ですから、普通の人よりも耳が敏感でしょうし。……違いますか?」
「その通りよ、稲葉くん」
桐崎杏奈は満足げに微笑む。
「私も稲葉くんも副会長さんより、ずっと優秀だと思うけど?」
「ぐ、ぐぬぬ……」
「だ、大河くん……どうどう……」
桜井さんが袖をつまんでなだめてくる。
悔しいけど――
桐崎さんの推理は筋が通っている。勿論、推測でしかないがそもそも手がかりが無く、制限時間がある以上は早めに行動を起こしたほうが良い。
それに、俺は足音なんて完全に意識の外だった。
……桐崎さん、動機がどうであれ本気だな、この“ゲーム”に
「ま、でもそうね。会長の言う通り“形上は”吉野くんが副会長でリーダーなんだし。みんなの同意も必要なんでしょう? さ、どうするの名前だけの副会長さん?」
桐崎さんが、俺の神経を逆なでするように言った。
正直、彼女の俺への態度は気分がいいものではない。
「くっ!」
俺は売り言葉に買い言葉の、『強い言葉』がのどから出かかっていた。
だけど――同時に、ある出来事がふと頭の中によぎった。
それは、俺がコンビニでアルバイトをしていた時のことだ。
俺はあの時、こういう場面での立ち回り方を教わったんだった。
えーっと、確か――
* * *
俺は、いつものようにコンビニの裏口へ自転車を止め、ゆっくりとドアを開けた。
ガチャ。
「おはようございまーす」
何気なくバックヤードに入ったその瞬間――
「吉野くん!!! ちょうど良かったーー!!」
店長が泣きそうな顔で飛び出してきた。
「え、ちょ、どうしました店長」
「シフトの子二人、体調不良で休み! レジも品出しもバックも回らない! どうしよう!! 一応、奥さんにヘルプを頼んだんたけど、まだ着くまでに時間がかかるって……!」
いつものテンションの倍くらいで店長が叫んでいた。
(え……まじかよ)
バックヤードの奥では、レジのスキャナーの電子音が鳴り続けていた。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
店はすでに軽い混雑状態。
店長は完全にパニックだった。
お昼のピークでもないのに、レジ前には妙な列ができている。その列は後方のドリンクの冷蔵庫のコーナーまで続き、お客さん一人一人からの“早くしろよ”の圧が凄まじい。
時期は確か夏休み中だったから八月ごろ。まだ気温も高く、店内はエアコンが聞いているはずなのに熱気がいつもより強く感じられた。
そして――パニック寸前の店長の代わりに、ワンオペで孤独にレジを守っていたのが、黒藪さんだった。
茶髪のロン毛を後ろでひとつに結び、白いタオルを首にかけ、高速で手を動かしている。
二十六歳、独身フリーター。
店長いわく「昔ミュージシャン目指してたらしい」男だ。
「――チッ、バーコードどこだよこれ……あ、あった! では合計六点で――」
黒藪さんはお客をさばきながらも、時おり額の汗を荒っぽく拭い、
まるで戦場の兵士みたいな気迫でレジを守っていた。
(うわ……やべぇなこれ)
カウンター横の揚げ物コーナーではランプが点滅し、補充のサインを出している。
棚は乱れ、バックヤードには開封されていない商品の段ボールが積み上がっている。
店長はその場を右往左往しながら叫んだ。
「吉野くん!! すぐに助けて! 本当に今日だけは!!」
黒藪さんがこちらを振り向き、眉を上げて叫んだ。
「おいヨッシー!(彼は俺のことをそう呼ぶ) 来たならすぐこっち来い!」
「わかりました!」
そして、その後のことは言うまでもない。
俺と黒藪さん、そして店長を含めた三人体制で、怒涛のレジ作業が続いた。
バーコードを読み取る音がひっきりなしに響き、
コーヒーメーカーはいつもより倍のスピードで動き、
揚げ物コーナーのアラームは悲鳴のように鳴り続けていた。
だが、三人で必死に回し続けた結果――
やがて混雑は少しずつ落ち着き始め、棚の補充も追いつき、なんとか「戦場」は終わりを迎えた。
あとでお客さんから聞いた話だが、近所で有名なドラマ撮影が行われていたらしく、
それを一目見ようと人が集まり、そのままコンビニに流れ込んだらしい。
(……そりゃあ、今日だけは地獄みたいになるわけだ)
ドラマ撮影が終わったあとの夜のコンビニは、まるで嵐が去ったあとみたいに静かだった。
黒藪さんも臨時で来てくれた店長の奥さんも帰ったあと、バックヤードへ水を飲みに行くと――
そこには、パソコンの前で深々とうなだれる店長の姿があった。
見慣れたその後ろ姿が、今日は特に小さく見える。
(まぁ……店長の気持ちはわかる)
あの急な混雑の後だったからか、黒藪さんからはストレスの限界とばかりに、彼から愚痴と叱責の雨嵐を受けていた。やれ店長は普段から計画性がないだのそういう類のことだ。
店長は、あれを真正面から全部浴びたわけで……これで落ち込まないほうが無理だよな。
――だけど、これは珍しいことじゃない。
コンビニ経営では、最も重いコストの一つは“人件費”だ。
だから平日は特に、人を削りに削って最低限の人数でシフトを組むことになる。
今日みたいな想定外の特需、
それにバイトの急な欠勤が重なれば……こうなるのは当然だ。黒藪さんの言いたい気持ちもわからなくもないが、さっきの流石に言い過ぎだ。
店長が最近、薄くなった髪の毛を気にしているのも、きっとそれら心労の蓄積のせいかもしれない。
「店長。今日は……厄日でしたね」
俺が声をかけると、店長はゆっくり顔を上げて、情けない笑顔を浮かべた。
「……あぁ、吉野くん。今日は早めにタイムカード切ってくれて助かったよ。
本当に……ありがとうね」
「いえ、俺は別に……。気にしないでください」
そして、お客さんが途切れた静かなこのタイミングで、俺はふと店長の本心を聞いてみたくなったのだ。




