第5話 イヤホンと涙の落とし物
自動ドアの隙間から冷たい風が入り、揚げ物ケースのガラスが白く曇る。レジ横の青いベンチはからっぽで、街灯に照らされた座面だけがやけに明るかった。
夜のコンビニは、いつもと変わらない。ある一点を除いて。
――先週まで、あそこに彼女がいた。
品出しの手を止めるつもりはないのに、気づけば視線がベンチへ流れてしまう。缶のブラックを片手に、片耳だけイヤホンをつけた横顔。あの姿は、今夜も影も形もない。
「もうすぐテストだろ? あの子も勉強で忙しいんだよ」
背後から店長が声をかけてくる。いつもの柔らかい口調だった。
「……まぁ、そうですね。って俺は別に、気にしてるわけじゃないですし」
口ではそう言ったが、レジのピッという音が妙に遠く聞こえた。
外の風はますます冷たくなっていく。冬はすぐそこだ。
* * *
翌朝の教室。
桜井澪はちゃんと席に座っていた。もう薄いマスクは外れ、黒縁の眼鏡の奥でまつ毛がゆっくり瞬く。いつも通り、いや、少しだけ表情の影が濃いようにも見える。
「おはよう」
「おはよう、吉野くん」
言葉は交わる。けれど、そのあとの距離の詰め方が分からない。俺達は夜のコンビニで少し話す程度の友達なのかどうかもよくわからない距離感なのだ。ましてや昼の彼女との距離感は遠い。
俺は「最近、夜――」と言いかけて、やめた。昼の彼女と夜の彼女、その橋の上に立つのは、まだ少し怖い。
休み時間、彼女は机に肘をつき、スマホの画面を親指でなぞっていた。
ちらりと視界の端に入ってしまう。画面の上部に短い二文字――「お母さん」。
すぐに画面は伏せられて見えなくなった。
俺はこの間あったあの母親のことを思い出していた。
くだらない想像をして、すぐに打ち消す。そういうことを確かめる関係じゃない。今のところは。
* * *
シフトの終わり。タイムカードを切って、外に出る直前。俺は事務所に置かれたそれに目が留まった。
段ボール箱に「落とし物」と油性ペンで書かれている。ふと中をのぞくと、白いイヤホンがひとつ、丁寧にまとめられて入っていた。
(……見覚えがある)
ベンチに座る彼女の耳元。片耳だけ、白。
胸の奥がちくりとしたとき、後ろから店長が覗き込んだ。
「ああ、それ? 外に落ちてたってお客さんが届けてくれたやつだね。持ち主、現れないけど」
「そう、ですか」
「落とした人は、もう諦めたのかもね。たまにあるよ」
諦める――その単語がやけに重たく響いた。
俺が持ち主に心当たりがある、と言えば話は早い。けれど、昼の教室で彼女にこれを手渡すことを想像すると、胸の中で別の誰かに渡すような居心地の悪さが芽生えた。夜の彼女のものを、昼の彼女に。
結局、「そうなんですね」とだけ返して俺は店を出た。
* * *
それからの昼の桜井さんは、教室ではいつも通りに見えた。
けれど、どこか眠たそうで、笑うときの目尻が少しだけ硬い。風邪が治ったあとの軽さは、どこかへ消えていた。
昼休み、相変わらず橘がサッカーの話で盛り上がる横で、俺は箸を置いた。
悩んでいるのが馬鹿らしくなって、急に立ち上がる。
「ちょ、どこ行くんだよ」
「ちょっと」
廊下は昼のざわめきで満ちている。行き交う生徒の足音、遠くから聞こえる吹奏楽部の音合わせ。
曲がり角で桜井さんを見つける。眼鏡の奥の瞳は、こちらに気づいて微かに揺れた。
「桜井さん」
「え……吉野くん?」
ふたりの足が止まる。
言葉を選ぶ暇なんて、もうなかった。
「なにか、あった?」
彼女はすぐには答えなかった。
数秒――、廊下の時計の秒針がひとつ進む音さえ聞こえそうな静けさ。
やがて、胸元で握りしめていたスマホが小さく震えた。
彼女の肩がわずかに跳ねる。その瞬間、眼鏡のレンズが光を受けて白く濁り、次の瞬間、透明なものがすっと頬を伝った。やがてそれは床に落ちた。
「……っ」
言葉より先に、胸が痛くなった。
声をかけようとした唇から、結局、息しか出てこない。
「ごめん」
それだけ言って、彼女は俺の横をすり抜け、トイレのほうへ走っていった。
「桜井さん!」
残ったのは、乾いた床に落ちる足音の余韻と、遠くの笑い声。昼の音はいつも通り賑やかなのに、耳の奥がきゅっと狭くなる。
* * *
その日を境に、俺たちは学校でも言葉を交わさなくなった。
黒板の文字を写し、ノートをめくり、ベルが鳴れば席を立つ。
ふと視線がぶつかっても、互いに知らないふりをするのが、いちばん楽だったからだ。
俺は夜、いつも通りに机に向かっていた。
バイトが終わったあと一通り必要なことを済ませたあとは少しの時間でも、授業の復習や予習をするのが俺の日課なのだ。母子家庭のうちでは母親と妹が一緒に住んでおり、母と妹は俺に気を遣って俺の勉強の邪魔はしない。
窓の外で風が鳴る。
ベンチの座面に落ちる夜の冷たさを思い出す。
昼の彼女は届く距離にいるのに、夜の彼女はもうどこにもいない気がした。
「……集中しろ、俺」
両手で頬を軽く叩いて、眠気と雑念を追い出した。
――その頃。
高台の家の窓辺で、桜井澪のスマホが静かに光る。
画面の上部には「お母さん」と表示されている。
新着のメッセージは、ただ一言だけだった。
『今日は仕事で帰れないけど、まっすぐ帰ること。そして夜な夜な外へ出かけないこと』
彼女の親指は、しばらくのあいだ、何も打てずに震えていた。