第51話 人生で最も苦いブラックコーヒー
「大河……どうしたの? こんな時間に」
粉雪の降る静かなコンビニの裏口前で、渚先輩が目を見開く。
俺は肩で息をしながら答えた。
「間に合ってよかった……今日は先輩に言いたいことがあって来ました」
「……私に?」
「はい」
「……うん」
先輩の声は、驚きと、どこか覚悟のようなものが混ざっていた。
「コーヒー買ってきたんで、どうぞ。自販機のですけど……まだ、あったかいです」
「大河が私に? 珍しいね」
「最後くらい……僕に奢らせてください」
渚先輩はふっと笑う。
「そだね。ありがと」
「寒いんで、早めに言いますね。とりあえず座ってください」
俺たちは――
いつものように。
そう、何度も一緒に座った赤い裏口のベンチに腰を下ろした。
でも今日は、全てが「いつも」と違う。
缶のプルタブを同時に開ける音だけが、やけに大きく響いた。
なんでもないブラックコーヒー。
それを一口飲む。
「……おいしい」
「良かったです」
湯気が白く揺れ、粉雪が舞う。
いつもならこのあと――
渚先輩が、俺の口を開かせるように話題を振ってくる。
でも、それはなかった。
渚先輩は、ただ黙ってコーヒーを飲んでいる。
そうだ。
きっと先輩はもう、わかっている。
俺が何を言いに来たのか。
今日ここに来た理由も。
覚悟も。
だから、待っているのだ。
俺が、自分の意志で、言葉にするのを――。
「俺、先輩のおかげで……だめなヤツでしたけど、なんとかここで最低限働けるようになりました!」
雪を含んだ風の中で、俺の声だけがはっきり響く。
「うん、知ってる。大河は驚くほど成長したよ」
「あと、先輩が目標に向かって頑張る姿を見て……俺も勉強を頑張って、学年三位になるまでになりました!」
「うん、知ってる。休憩室で勉強してるの、何回も見たよ」
「それに、こんな俺をほっとかずに手を差し伸べてくれた先輩の真似をしたら……友達もできました」
「うん、知ってる。澪ちゃんは、これからも大河とはいい関係でいてくれると思う。大事にしてあげてね」
「はい。彼女とは、これから生徒会でも一緒に頑張っていきます」
渚先輩は、変わらず静かに聞いていた。
あぁ――よし。
今なら、言える。
「渚さん!」
俺はベンチから立ち上がった。そして真正面から、彼女を見た。
粉雪が舞う中、街灯の光に照らされた先輩は、まるで天使みたいに綺麗だった。
「俺……あなたのことが――」
喉が震える。
でも言う。
俺の全部をこの人に渡す。
「ずっと……好きでした!」
はっきりと、俺の声が響いた。
渚先輩は、手にしていた缶コーヒーをそっとベンチに置いた。
そして、静かに立ち上がる。
「……よく言った。本当に、成長したね」
風が吹くたび、先輩の髪がわずかに揺れる。
どこか凛としていて、けれど優しい。
そんな声だった。
たったそれだけなのに、胸が熱くなった。
そう。
俺が迷っていたのは――
怖かったのは――
“振られるかもしれない恐怖”なんかじゃない。
そんなものは、最初からわかっていた。
俺が本当に怖かったのは、
自分の正直な気持ちを、誰かに伝えること。
言葉にしてしまったら、もう後戻りできないから。
俺は、過去に何度も過ちを繰り返してしまったから。
「……はい」
自分でも驚くほど小さな声だった。
渚先輩は、まるで何かを抱きしめるみたいに、胸の前で手を組む。
その目は、俺の言葉を受け止めながらも、どこか悲しげで、優しかった。
渚先輩は胸の前でそっと手を重ね、微笑んだ。
けれどその笑顔は、ほんの少しだけ震えていた。
「……ありがとう。大河の気持ち、すごく嬉しいよ」
「はい」
寒さではない。
胸の奥がじん、と熱い、痛い。
「でも、大河のその気持ちに……私は応えてあげることはできないんだ」
「……はい」
想像していた言葉。
覚悟していたはずの言葉。
それでも、胸が掴まれるように酷く痛んだ。
渚先輩は、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
「ごめんね」
その“ごめんね”は、俺の胸に優しく触れ、そして深く沈んでいった。
「いえ……。最後まで俺と向き合ってくださって……ありがとうございました!」
気づけば俺は頭を深く下げていた。
風が吹いて、雪が舞い落ちる。
渚先輩はそんな俺の頭を、
まるで一年生のころの俺に戻ったかのように、くしゃくしゃにした。
優しくて、あったかくて――
俺は頭を、顔を下げたまま動けなかった。
でも、それは“先輩としての最後の優しさ”だった。
ここで顔を上げれば、情けない顔を見せてしまう――渚先輩は、それを分かってくれている。
その視界の外で、渚先輩がどんな顔をしていたのか――
俺は、最後まで見られなかった。
渚先輩はベンチに置いた自分の缶をそっと手に収め、背中越しに言った。
「……私の送別会には絶対来ること! わかった?」
「……はい」
「ありがとう、大河。またね」
その声は、いつもより少しだけ震えていた気がした。
気づいたときには、もう彼女の足音は遠ざかっていた。
どれくらい時間が経ったんだろう。
指先がじんじんと冷える。
コンビニの街灯が、俺ひとりになったベンチをぼんやりと照らしていた。
俺は、ベンチに置きっぱなしだった自分の缶コーヒーを掴む。
中身は半分以上残っているのに、すっかり冷えてしまっていた。
缶を傾け、口をつける。
「冷たいし……苦い」
でも――胸の奥に広がる、このどうしようもない痛みを誤魔化すのには丁度良かった。




