第50話 さぁ、いこう。
――カチ、カチ、カチ。
壁掛け時計の規則的な音だけが、俺の耳に届いていた。
今日は一月三十一日。
枝垂渚先輩の、コンビニのアルバイト最終日。
今日は土曜日。
あいにくバイトのシフトには入っていない。俺は朝から自室で机に向かってじっと考えていた。
窓の外は薄曇り。
「……今日で、先輩があの場所からいなくなるのか」
ぽつりと漏れた言葉は、思ったよりも重たかった。
この約一年ほど――
俺は何度、あの場所で先輩に救われただろう。
バイトの最初の日に店長よりも先に怒られたこと。
でもその後で褒められて、バックヤードでくしゃくしゃに頭を撫でられたこと。
何度もあのベンチで奢ってもらったコーヒーの味。
そして、初詣の日……抱きしめられたあの瞬間。
全部、全部、思い返すだけで胸の中がぐちゃぐちゃになる。
「伝えるのか……本当に」
自分に問いかける。
渚先輩は、もうすぐこの街を出る。
卒業旅行、その後の引っ越し、そして四月からは新しい職場での生活。
今日が最後の、チャンスだ。
逃せばもう二度と、同じ距離には戻れない。
「怖い……けど」
言葉が喉の奥に突っかかる。
何度決心して巻き戻ったかわからない。
それでも、その度に浮かんでくるのは桜井澪からの言葉。
『伝えなきゃ、後悔するでしょ? 渚さんに、吉野くんの気持ちを言ってあげて』
――わかってるさ。
深呼吸。
スマホを手に取る。
画面には、
コンビニの今日のシフト表がスクリーンショットで保存されている。
《17:00~22:00 枝垂》
「……さぁ、いこう」
椅子からゆっくりと立ち上がった。
時間は午前九時過ぎ。
外は静かで止まっているようだった。
でも俺の心臓はずっと走り続けている。
「三四七〇円のお返しでございます」
「ありがとう」
「ありがとうございます。またお越しくださいね」
洗練された所作でレジ袋を渡し、丁寧にお辞儀をする――
この店で一年以上、夜の時間帯を支えてきた枝垂渚だ。
自動ドアが閉まると同時に、店内にほっとした空気が流れる。
「はぁー……ついに今日で最後だね、枝垂さん」
レジ横にいた店長――樫村が、しみじみとつぶやく。
「ですねー。でもなんだか実感はないですよ店長」
「だよねぇ。本当なら今日ももっと人を増やしてあげたかったんだけど……ほら、人件費がねぇ」
「大丈夫ですよ! 来週、送別会があるんですから!」
「うん。あ、もう時間だね。上がっていいよ。本当に長い間お疲れ様」
そう言うと店長は、渚の手を両手で包み込むように握った。
目には、うっすら涙が浮かんでいる。
「店長、店内で泣かないでくださいよー!」
「いや、ほんと……ありがとね」
渚は照れ笑いしながらバックヤードへ入っていく。
その直後、柿田がやってくる。
「店長、少しだけレジいいすか? 先にごみ捨てやってきますけど」
だが店長――樫村は、慌てたように手を振った。
「いや、あと十分……いや! あと二十分くらい後にできる?」
「え? あ……はい。わかりました」
柿田は首をかしげながらうなずいた。
店長の方はというと、何かを必死でこらえているような表情だ。
「……頑張るんだよ」
ぽつりと漏れた店長の言葉。
「店長、誰に言ってるんですか」
柿田の声はもう聞こえていない。
樫村は、ただじっと、
――裏口の向こうを見つめていた。
* * *
バックヤードの扉が、きぃ、と静かに開いた。
「お先に失礼します」
渚が軽く店内へ一礼して外へ出る。
背後でバタン、と扉が閉まる。
外気は思った以上に冷たかった。
裏口の薄暗い照明に照らされて、細かい雪が斜めに舞っている。
「……もう二月なのに雪かぁ」
枝垂渚は、吐く息の白さを眺めながら、降りしきる粉雪を見上げた。
しん、としていて、街の音さえ遠く感じる。
そんな中――
ひとつだけ、雪を踏む足音が近づいてくる。
渚はゆっくりと視線を下ろした。
「……え、うそ。大河?」
そこにいたのは、黒いジャケットにマフラー姿の吉野大河だった。
肩や髪に薄く雪を乗せたまま、息を切らしている。
「お疲れ様です。渚先輩」
彼はしっかりと目を見て、彼女に微笑んだ。
今日、この瞬間に合わせて来た――
そのことが一目でわかるような、まっすぐな笑顔だった。




