第48話 それは反則
バイトを終えて家に帰り、食卓で簡単に夕飯を済ませたあと、自室へ戻った。
暖房の効いた部屋は、どこか妙に静かで、自分の心臓の音だけがやけに大きく感じる。
カタン、と音を立てて部屋の扉が開いた。
「お兄ちゃん、次、お風呂入っていいよ」
「……ああ、わかった」
振り返ることなく背中越しにそう答える。
瑞希は「変なの。おやすみー」と部屋を出ていった。
――その直後、しんとした静寂が戻る。
目の前には開きっぱなしの教科書と、置きっぱなしの参考書。
でも、どちらにも手を伸ばす気にはなれなかった。
視線は自然と右手のスマホへ向かう。
画面をタップすると、ラインが開く。
桜井さんのトークルームが一番上にある。
(……この時間なら、まだ迷惑じゃないよな)
深く息を吸い込んだ。
そして吐く。
また吸って……吐く。
渚先輩が言っていた。
“みんな怖いんだよ。やったことのないことは”
そうだ。
俺も怖い。
でも、怖いままで動かないほうが……もっと怖い。
その瞬間、迷いがすっと引いていくのを感じた。
――通話ボタンを押した。
耳元で呼び出し音が響く。
~♪
二コール、三コール……四コール。
この時間にクラスの女子に電話をかけるなんて初めてのことで、どこか背徳感を感じていた。
そして――。
『はい。えっと……吉野くん?』
「ああ、そう。ごめんな、こんな夜更けに」
『ううん。どうしたの? 吉野くんが電話なんて、ちょっとビックリしちゃった』
「うん。まあ、明日でもよかったんだけど……どうしても今、話しときたくてさ」
しばしの沈黙。
その向こうで、桜井さんが息を整える音が聞こえた。
『……うん、なに?』
「……俺、やるよ」
『……! それって、もしかして』
「そう。副会長、引き受けることにした」
『もしかして……渚さんと話したの?』
「っと、鋭いな。今日、先輩と話してたら……色々と心境が変わってさ」
『そっか』
「あと一つ、桜井さんに謝っときたくて」
『え?』
「その……話の流れとはいえ、桜井さんの承諾もなく勢いで推薦する形になって、ごめん。勝手だったなって思ってる」
また少しの間が空いた。
でも、その沈黙は重くなかった。
『ううん。むしろ……感謝してるんだよ、私』
「感謝?」
『うん。なにか学校で新しいことを始めようと思ってたけど、この時期から部活動に入るのは遅いし……だから、ボランティア部とかかなって考えてたの。でも、まさかこんな大役をもらえるなんて思ってもみなかったもん。どう考えても吉野くんのおかげだし……お礼、言わなきゃって』
「なるほどな。でも、それはあの生徒会長が、桜井さんを見て判断したからだよ。俺が推薦したって、あの人が納得しなかったら……絶対に入れなかったはずだ」
『……かなぁ?』
スマホ越しに聞こえる声なのに、すぐ近くで笑われているみたいだった。
優しくて、あたたかくて――落ち着く声。
「そういえば! 放課後、生徒会室に行ったんだろ?」
『うん、行ったよ。話が進むのが早くて、正式加入の書類も何枚か書いて提出したよ。あとは、お互いに自己紹介もしたよ』
「仕事の内容の説明とかは?」
『それはね、副会長が揃ってからだって。霞さんがそう言ってた』
「……あの策士め……」
霞汐乃がしたり顔で笑う姿が容易に想像できた。
『霞さん、その時も言ってたよ。“吉野大河なら必ず近いうちに首を縦に振る。私は諦めない”って』
「こうなると、なんか手のひらで泳がされてる気がして納得いかないなぁ……」
電話越しに小さく笑う声が聞こえた。
『ふふっ……なんだか楽しくなりそうだね、“大河”くん』
――突然の名前呼び!!
その破壊力は、鼓膜より先に心臓に届いた。
「っ……今、名前……?」
『あっ! ごめん! つい!』
「いや……べつに。呼びたいなら、呼んでいいよ。驚いただけだし」
『……ほんと? じゃあ――大河くん』
「……なんかむず痒いなぁ」
『だって私たち、もう友達でしょ? “吉野くん”ってなんだかよそよそしくって』
「友達……か。まぁ、確かに」
『あ、だからね。私のことも名前で呼んでいいよ?』
「ええ!? だって、名前って……結構ハードル高くないか?」
『あはは、やっぱり? じゃあ……大河くんが、私ともっと仲良くなった時の大河くんに期待しとこっかな』
その言い方は反則だろ。
胸の奥が、ふっと熱くなっていく。
俺は深呼吸して、できる限り自然な声で言った。
「……じゃあ、“桜井”。今の俺はこれが限界だ」
電話越しの、柔らかな沈黙。
その沈黙に、電話越しの彼女の微笑みを感じた。
「じゃあ、まぁ今日のところは……それを伝えたかっただけだから」
『……うん』
「じゃあ、おやす――」
『大河くん!』
「ん? どうした?」
『あの……また、なにかあったら……私からも電話してもいいかな……?』
その声は、ほんの少し震えていた。
けれど決して怯えではなく、どこか“前に進む勇気”の震えだ。
「あぁ、もちろん。俺達、友達なんだろ?」
『うん。……よかった』
電話越しに小さく息をつく音。
「じゃあ、また学校で」
『うん。またね』
「おやすみ」
『おやすみなさい』
通話が切れた。
スマホをゆっくり机に置き、深く息を吐く。
「……びっくりしたな。ほんとに、変わっていくなあの子は」
桜井澪は、本当にあのクリスマスの夜から止まらなくなった。
驚くほど強く、まっすぐに前へ進んでいる。
俺はその勢いに、ただ感心するしかなかった。
バンッ!
ベッドにダイブする。
天井を見つめながらつぶやいた。
「……俺も、変わらなきゃな。
それで、渚先輩に……」
胸の奥が熱くなる。
そして――足が勝手に、じたばたと暴れた。
「うわ、くそ……恥ずかしい!」
ベッドの上で暴れる足。
でもやるしかない。
俺の“未来”は、もう動き出していた。




