第4話 見納めの夜桜
翌朝――
下駄箱の前で靴を履き替えていると、隣に薄いマスクをつけた桜井澪の姿が見えた。
その姿は夜のコンビニで見る彼女とはまるで別人だった。
きっちりと結んだ髪は光を受けて淡く揺れている。黒縁の眼鏡越しの瞳はおだやかで、けれどどこか遠くを見ているようだった。制服の赤いリボンは丁寧に結ばれ、白いシャツの袖口から覗く手首には、夜に見た“自由な彼女”の影はない。
――昼の桜井澪は、完璧に整えられた優等生の顔をしていた
ともかく久しぶりに見る彼女の姿に、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。
「あ、桜井さん、おはよう」
俺が声をかけると、彼女はマスク越しに小さく微笑んだ。
「おはよう、吉野くん。風邪、もう大丈夫だから」
「無理するなよ。昨日までは休んでたし」
「うん。もう熱も下がったし、マスクも一応してるだけだから。それと……ありがとう。プリントも届けてくれて」
「ああ、クラス委員だからな。先生に頼まれただけだよ。とにかく元気になったみたいで安心したよ」
そう言うと、彼女のほうが照れくさそうに視線を逸らした。
その仕草が、どこか夜とは違って見えた。
昼の桜井澪――制服を着た彼女は、やっぱり少し遠い存在に感じる。
「……うん、ありがと」
「いいって。さ、いこうぜ」
俺は軽くうなずくと、照れ隠しのようにカバンを肩にかけ直した。
* * *
授業中。
久しぶりに視野の端に桜井さんの姿がある。
黒板の文字を写しながら、彼女は今日はしっかり前を向いていた。
風邪で休んでいたのが嘘みたいに、少し元気そうだ。いや、逆に風邪を引いたおかげでこの数日はゆっくり眠れたのかもしれない。
昼休みに俺は橘たちといつものように机を囲んで弁当を広げていた。
橘が隣で彼が所属しているサッカー部のネタを話しているのを聞きながら、無意識に澪のほうへ目をやる。
数列向こう、桜井さんは女子たちと談笑していた。
机の上には、色とりどりの副菜が詰まったお弁当箱。卵焼きに煮物、そして小ぶりなサンドイッチ。
「澪っちの家のお弁当って、いつも豪華だよねー」
「ほんとほんと! これ、お母さんの手作りなの?」
女子のひとりが言うと、彼女は少しだけ困ったように笑った。
「うん……まぁね」
昨日、桜井家に行った俺には分かる。あれはおそらく家政婦さんが作った弁当だ。けれど、彼女が「うん」と笑って答えた瞬間、その嘘が優しさに見えた。
「おい大河、お前今完全に桜井さんを見てただろ」
向かいの橘がニヤニヤしながら箸を止めた。
「み、見てねぇよ!」
「いやいや、目線がバレバレ。委員長、分かりやすいなぁ~」
「うるさい。クラス委員長として病み上がりのクラスメイトの心配をして何が問題なんだ」
そう言いながら、俺は橘の弁当箱に手を伸ばし、唐揚げをひとつ摘まんだ。
「おい! 人の唐揚げ勝手に取るな!」
「委員長特権だ」
「聞いたことねぇよ、そんな制度!」
口に入れた瞬間、衣のサクッとした音とともに、少し甘めのしょうゆ味が広がる。
俺はわざとらしくうなずいた。
「……うん、うまい。やっぱり揚げたてだな」
「朝に揚げたもんが揚げたてなわけあるか!」
橘が呆れたように笑う。
そのやりとりに周囲の男子もクスクスと笑った。
俺は窓の外へ視線を逃がした。
澪の笑顔が、ガラス越しに淡く反射していた。
* * *
その日の夜。
コンビニの明かりがいつも通り静かな住宅街を照らす。
「もうこんな時間か。あと5分で退勤だな」
桜井さんが風邪を引いてから、店のベンチはずっと空のままだ。寒くなってきた季節の中でお尻が冷えるベンチに座る人間はいないのだ。
缶コーヒーを買いにくる常連客たちの姿のなかに、グレーのスウェットは見えない。
俺はスナック類の品出しを終えると、ふとため息をついた。
(まぁ、病み上がりで夜出歩くのも良くないか。いや、そもそも女の子が夜に一人で出歩くのも良くない)
そんなことを考えていたとき、背後から店長の声がした。
「吉野くん、あのブラックコーヒーの子、来ないから寂しいのかい?」
「うわっ、店長! いきなり出てこないでくださいよ!」
「ははは、青春だねぇ。寒くなってくると余計に人恋しくなるもんさ」
「べ、別にそんなこと……!」
言い返そうとしたその瞬間、入口のベルが鳴った。
自動ドアの向こうに、見慣れた髪の色と輪郭。
胸が少しだけ跳ねる。
彼女だった。
今日もいつものスウェット姿の上に、淡いピンクの中綿ジャケットを着ている。
左手には茶色の紙袋を持っている。
彼女は小さな白い息を吐きながら、レジへ歩み寄ってきた。
「こんばんは吉野くん。お仕事、もうすぐ終わりだよね」
「え、あ、ああ。あと少し」
「良かった。着替えたら外のベンチに来てくれる?」
そう言い残して、彼女は外へ出ていった。
ドアのチャイムが鳴り、冷たい風が店内に入り込む。
その背中と風が少しだけ、懐かしく感じた。
* * *
俺はタイムカードを押してロッカーでエプロンを外す。
外に出ると、ベンチには桜井澪が座っていた。
手には温かいブラックコーヒー。
白い息を吐きながら、俺に気づくと立ち上がる。
「あ、お疲れ様」
「桜井さん病み上がりなんだから、あんまり無理したらダメだよ」
「うん。でもどうしても早めにこれを返したくって」
澪は茶色の紙袋を俺に差し出した。
中には見覚えのある黒いジャケット。
「貸してくれてありがとう。クリーニングもしておいたから」
「そんな、別によかったのに」
「そうはいかないよ。私としては、貸してもらって風邪ひいて、しかも家まで来てもらっちゃって……申し訳なくって」
「……ま、笑い話にしようぜ」
「うん、ありがと」
俺がそう言うと、澪は小さく笑った。
夜のコンビニの照明が、その笑顔をやわらかく照らす。
ピンクのジャケットの袖口から、指先が少しのぞいていた。
静かな夜風が吹く。
道路では車が数台通り過ぎていき、誰かの電話をする声が耳に入っていく。
二人のあいだには、言葉にできない温度だけが残っていた。
だが、俺はこの時まだ知らなかったのだ。
この後、再び夜の桜井澪はこのコンビニに姿を見せなくなることを。