第47話 俺は“ばか”
「はい」
渚先輩が、手に持っていた“SAKURA COFFEE”の缶を俺に差し出してくる。
「え? でもこれ……」
「あげる。まだあったかいよ」
「あ、いやそうじゃなくて」
遠慮しようとしたその瞬間――彼女はニヤッと笑って、からかうように言った。
「ん? なに大河ってば、間接キスだとか考えてる? お子様だなー」
「なっ……!」
言われた瞬間、脳みそより先に身体が反応した。
俺は缶を奪うように受け取って、そのまま勢いよく口をつけて飲み干してしまった。
「……ぷはっ」
渚先輩は、それを見て声を抑えながら笑っている。
「はは、やっぱり大河はからかい甲斐があるね!」
からかわれているのに、不思議と嫌な感じはなかった。
むしろ胸が少しだけ熱くなる。
「俺で遊ばないでくださいよ!」
渚先輩は飲み終わった缶を受け取りながら、スッと表情を引き締める。
「で、なに悩んでんの?」
「え」
「足音と顔見ればわかるよ。大河ってわかりやすいから」
(……そういえば桜井さんにも言われてたな。俺ってそんなに情報が表に出てるのか?)
だけど、確かに彼女の言う通りだった。
今日一日中ずっと胸に引っかかっていることがある。
それは二つ。
一つは――霞汐乃からの“生徒会副会長”の勧誘。
もう一つは――それこそ目の前の彼女に打ち明けるべき“想い”。
もちろん、今話せるのは前者だけだ。
「……はい、まぁ実は」
「やっぱり。ほら、お姉さんが聞いてあげよう」
彼女はベンチにもたれながら、俺が話しやすいように身体を少し俺の方へ向けてくれた。
「…………実は――」
俺は、今日あったことを順序立てて説明した。
霞汐乃が教室へ来たこと。
副会長への勧誘。
断ろうとしたこと。
そして――桜井さんを推薦したこと。
話す間、渚先輩は一度も口を挟まなかった。
うなずいたり、真剣に聞いたり、時折微かに眉を上げたり。
俺が話し終えると、缶コーヒーの缶の側面を指で軽く叩きながら、言った。
「え? それだけ?」
「……はい」
「全然悩みじゃないじゃん! むしろ良かったね! すごいじゃん」
彼女は軽く肩をすくめて笑う。
「たしか大河の高校の生徒会って、ネットや雑誌にも載るくらい話題になってるよね?」
「はい。でもだからこそっていうか……」
「時間がないとか? そういえば大河、クラス委員もやってるよね」
「あ、はい。ただ……クラス委員については、クラスメイトの大島っていう子が変わってくれるって言ってくれて」
「ふーん。じゃあ時間的にはそんなに問題なさそうだね。最悪、このバイトを調整すればいいだけだし。店長は泣くだろうけど」
「……はい、ただ……」
言いにくそうに言葉を濁した俺を、渚先輩がちらりと見た。
その目は――見透かしている目だ。
「要するにさ、その会長さんが大河のことをそこまで買ってくれてるのに、その期待に応えるほどの自信がないってことでしょ?」
図星――
「……そう、なりますかね。クラス委員と生徒会じゃ、ちょっと規模や責任が違ってきますし」
「そうかな? 私はそうは思わないけどな」
「え?」
「やってることは一緒じゃん。クラスのために動くのか、もう少し広い“学校”のために動くのか。その違いだけ」
「……まぁ、確かに」
渚先輩は缶を置き、少し姿勢を正した。
「それにさ――澪ちゃんのこと、どうするの?」
「というと?」
「だってその生徒会長さん、“大河が副会長を引き受ける”って前提で、澪ちゃんを生徒会に迎えたんでしょ?」
「……う」
痛いところを突いてくる。
確かに、俺が逃げたら――桜井さんは微妙な立場になる。
霞さんのことだから“無理に俺を入れる”ことはしないだろう。
でも――あの人は俺が承諾すると信じてる目をしていた。
あの目はズルい。
勝手に、逃げたら卑怯だと思わせてくる。
「……確かに」
「澪ちゃんはなんか言ってた?」
「あの後、クラス中が騒ぎになったので……桜井さんとはまだしっかりとは話せてないです」
「澪ちゃんだったら、大河の意思を尊重するって言いそうだけどね」
「俺もそう思います。
それに霞さんも、仮に俺が生徒会に入らなくても……桜井さんを抜けさせたりはしないと思うし」
「じゃあ――単純になったね」
「……」
「大河しだいだよ。やるのか、やらないのか」
風が吹き、ベンチの脇の街灯が小さく揺れる。
渚先輩は俺の横顔を見つめたまま、静かに言葉を続けた。
「逃げたって誰も責めないと思うよ。でも――やらない理由を“できない理由”に変えて隠しちゃうのは、私は好きじゃないな」
その声音は優しいのに、真っ直ぐで、逃げ場がない。
「先輩はいいですね。強いから」
つい俺の口から出た愚痴にも近い言葉。それが先輩の何かに触れたようだった。
「……ねえ、それ本気で言ってる?」
「え、だって先輩は昔から俺のことを励まして導いてくれて――」
「そんなの当たり前じゃん」
渚先輩の声に力が、感情が入るのがわかった。
「私は大河が悩んでるようなことを、もうとっくの昔に経験してるの! 私が大河にアドバイスできるのは、その“怖さ”をもう知ってたり、経験してるからだよ」
真正面から言われ、言葉が詰まった。
その瞳はいつもより強く、そしてどこか――初めて見る弱さを隠しているようにも見えた。
「大河から見たら、私は頼れる大人のお姉さんかもしれない。でもね。私だって不安はいっぱいあるんだよ?」
「先輩でも?」
「当たり前。誰だって経験したことのないことは怖いの。私だって、あと少ししたら一人でこの街を離れて社会人になるんだよ」
渚先輩は軽く俯き、胸のあたりにそっと手を置いた。
「怖い。みんなや、この街を離れて……一人で、知らない世界に飛び込むのが」
「先輩……」
その姿は、俺が知ってる“完璧なお姉さん”じゃなかった。
もっと人間らしくて、弱いところを見せないで強く立ってきた人だった。
胸が締め付けられる。
「でも、それはみんな同じなんだよ」
渚先輩は顔を上げた。
「私だって。
澪ちゃんだって。
その生徒会長さんだって――これから、やったことのない新しいチャレンジをするんだよ」
そして、俺を真っ直ぐに射抜くように言った。
「――大河はどうするの!?」
雷に撃たれたようだった。
身体の奥に響く。
逃げ道を探していた自分を、真正面から掴まれて引き戻された感覚。
「……俺は……」
言葉が、胸から喉へ上がってきて、つまって出ない。
けれど、何かが変わろうとしていた。
――そうか。
みんな、みんな怖いんだ。
渚先輩でさえ、あんなに強く見える人でさえも。
じゃあ、俺はどうするんだ。
もう、誰かに導かれるだけの存在じゃだめなんだ。
『吉野くん!』
頭の中で、桜井澪の姿が蘇る。
あの夜、涙をためながら、それでも必死に俺に向かって叫んだ顔が。
彼女は言った。
“自分が変われたのは、吉野くんのおかげ”だと。
桜井澪は、これから止まらないだろう。
新しい世界に、自分の意志で飛び込んでいくだろう。
――もう、誰かの後ろに隠れるような彼女じゃない。
俺はこれまでどうだった?
渚先輩に憧れて、振り向いてほしくて、バイトに真面目に向き合った。
勉強も、がむしゃらにやってみたら信じられない結果が出て、周りの目が変わった。
その変化に気持ちよさを覚えて、進学に有利になると思ってクラス委員まで引き受けた。
でも――
あれもこれも、ただの“形”だったのかもしれない。
自分が本当に何をしたいかなんて、考えもしなかった。
『吉野くんの――ばか!』
胸の奥で桜井さんの声が響く。
なんで今、この瞬間に……。
でも、その“ばか”がやけに胸に刺さった。
――そうだな。
俺はばかだ。
誰かに言われないと、自分のすべきことも決められない。
誰かが引っ張ってくれないと、踏み出せない。
でも。
今、ようやく理解した。
桜井さんも。
渚先輩も。
そして生徒会長の霞汐乃さえ――みんな、自分の足で立って挑んでる。
じゃあ俺は?
答えは一つしかない。
「先輩。俺、やってみます。生徒会の副会長」
これを聞いた渚先輩がどんな表情だったか。
そんなことはここで書かなくても良いことだろう。
そんなことは大した問題じゃない。




