第46話 一枚上手の食えない人
「だから俺より、桜井さんを推薦するよ」
教室中が再びどよめきに包まれる。
「え、わ、わたし!?」
桜井さんは思わず声を上げた。
霞生徒会長は、そんなざわめきにも動じず、じっと桜井澪という人間を見つめた。
その視線は、表面的な情報じゃなく“中身”を確かめるようなものだ。
「……ふむ。では桜井澪」
「は、はいっ!」
「君は、どうなんだ? 当人の意思を確認したい。――生徒会の一員としてここからの一年間、働くつもりはあるか?」
真正面から向けられた問い。
桜井澪は霞汐乃からのまっすぐな視線に対し、同じ熱量のまっすぐな視線を返した。
その瞳は、俺が知っている“前までの彼女”とは違っていた。揺れていない。逃げてもいない。
「……はい。やってみたいです」
はっきりとした声だった。
「私、今まで自分のことでいっぱいいっぱいで、誰かの役に立つことなんて考えられなかったけど……。
でも、この一年で、少しだけ変わりたいって思えるようになりました。
だから、もし必要としてもらえるなら――私も、学校のために動いてみたいです」
その言葉に、俺の胸がじんと熱くなる。
(……言い切った)
霞さんは短く目を細めた。
そして、口元を緩める。
「なるほど。確かに――私の中にある以前の“桜井澪”という人間の印象とは、中身が大きく変わっているようだな」
「え……?」
「一学期までの君は、内に秘める思いはあれど、それを閉じ込めたままの生徒という印象だった。だが今の君は、違う」
そう言って、彼女はゆっくりとうなずいた。
「よかろう。桜井澪。君を、生徒会執行部のメンバーとして迎え入れる。役職は――庶務だ」
さらに、きっぱりと言葉を継ぐ。
「ただし、吉野大河という、生徒会副会長の意思として、だがな」
ん?
「はああっ!?」
教室がまた一段階ざわつく。
「副会長!?」「吉野くん、さっき断ってなかった!?」「さすが汐乃会長……!」
周りの声が一気にうるさくなった。
勢いに飲まれてはと俺も反撃する。
「おい、あんた話聞いてたか!? 俺は“俺の代わりに”桜井さんを推薦するって意味で言ったんだぞ!」
けれど霞さんは、まるで風でも当たった程度の反応しか見せなかった。
「ほー、そうか。解釈の違いだ。どうも日本語は難しいな」
「とぼけんな!」
「私の中では、君が副会長として相応しいことに変わりはない。その上で、君が推薦した桜井澪も“採用”した。何か問題が?」
「大ありだよ!」
俺と霞さんの言い合いに、教室の何人かがクスクス笑いだす。
緊張していた空気が、少しだけ和らいだ。
桜井さんは俺と霞さんの間を取り持とうと少し焦っていた。
「いったん落ち着こ、吉野くん!」
「――でも!」
そこへ――
「会長、そろそろ休み時間が終わります。我々も教室に戻らないと」
稲葉会計が、時計をちらりと見ながら小声で促した。
「……そうだったな」
霞さんは軽く咳払いをして、俺の方へ向き直る。
「では――吉野大河。ここで判断するのは、少し早計だ。時間はまだある。副会長の件は、一度持ち帰って考えてみてくれ」
「いや、だから俺は――」
「君と違って、生徒会は衝動で物事を決めない主義だ。返事は急がない」
そう言って、くるりと背を向ける。
「桜井澪。放課後、職員室横の生徒会室に来てくれ。詳しい説明をしよう」
「は、はいっ!」
桜井さんが深く頭を下げると、霞さんと稲葉会計は、再び教室の視線を一身に浴びながらドアへ向かって歩き出した。
「ちょっと待ってくれ! 俺は!!」
ガラリ、と扉が閉まる。
(くそ、やられた。食えない人だ)
次の瞬間――。
「おい吉野!」「やるじゃん澪っち!」「副会長どうするんだ!?」「庶務ってなにするの!?」
教室は一気に騒がしくなり、俺と桜井さんはうろたえるしかなかった。
(……マジかよ、なんかとんでもない方向に話が転がっていってる気がするんだが)
ただ、その横で、桜井さんが少しだけ誇らしそうに胸に手を当てているのを見て――
俺は何も言えなくなった。
* * *
「うー、さむ!」
銀色の自転車を駐輪場に停め、ライトを消す。
冷たい空気の中、コンビニ裏口へ続く細い通路を進むと――。
赤いベンチの上に、人影があった。
枝垂渚。
渚先輩は勤務時間が長く、間に休憩時間が入る。
ネイビーのダウンジャケットを羽織り、片手には“SAKURA COFFEE”の缶コーヒー。
白い息を吐きながら、スマホをスクロールしている。
(……なんか、久しぶりな気がするな)
俺は足音をできるだけ静かに、近づいた。
その気配に彼女が気づいたらしい。顔を上げる。
「……お、大河じゃん」
「お疲れ様です」
軽く会釈して、裏口のドアの取っ手に手をかける――その時だった。
「ちょっと待った」
「え?」
彼女の低めの声が背中に届く。
振り返ると、渚先輩は缶コーヒーを持ったまま俺の方を顎で示した。
「まだシフト入るまで時間あるでしょ? ちょっと私と喋ってかない?」
「……ああ、はい」
断る理由もなかった。
俺は彼女の隣に腰を下ろした。
赤いベンチは冷えていてひんやりしたけれど、それ以上に隣にいる先輩の存在が、不思議な温度を持って感じられた。
あの元日の日、俺を落ち着かせるために、抱きしめてくれたことが脳裏にフラッシュバックしてなんとも言えない気持ちになった。
店の裏は静かで、駐車場の照明がぼんやりと白く光っている。
俺は渚先輩の言葉を待っていた。




