第42話 初めての衝突
バイトを終え、私服に着替えたあと、俺は店の外で自転車のハンドルを握っていた。
夜の空気は澄んでいて、白い息が街灯の光に溶けていく。
コンビニの明かりが背後で静かに遠ざかる中、俺と桜井さんは並んで歩いていた。
「ごめんね、わざわざ送ってもらっちゃって」
マフラーの端を指先で押さえながら、桜井さんが申し訳なさそうに笑う。
「いや、女の子の一人歩きは危ないし。桜井さんになんかあったら、ご両親に申し訳が立たないしな」
「ありがとう」
その声は小さかったけれど、夜の静けさの中ではっきりと届いた。
俺たちの足音が、アスファルトに響く。
家々の玄関灯が煌々と揺らめいている。
「ただ――」
俺はハンドルを握り直して、苦笑する。
「桜井さんの家までは登り坂だから、さすがにこの前みたいに後ろに乗っけてくのは無理だな」
「いいよ」
彼女は少し笑って、白い息を吐いた。
「だって、こうやって話しながら帰るのって楽しいし。それに二人乗りは禁止だよ」
「だな」
その後、しばらく俺達は何気ない日常の話を続けた。中身なんてあってないようなものだった。それこそ冬休み中の身の回りの小さな出来事とかだ。
やがて――
「そういえばさ」
並んで歩きながら、俺はふと思い出したように口を開いた。
「冬休みにみんなで勉強会したとき、桜井さん、言ってただろ。
“この最後の高校生活の一年間で、学校でなにか始めたい”って。……あれ、もう決まったのか?」
桜井さんは少しだけ視線を上に向け、夜空を見上げた。
「ううん、まだ具体的には。……でもね、明日からちゃんと考えるつもり」
「そうか」
「うん。そのために冬休み中にお母さんに打ち明けて、いままでやってた習い事は全部ストップしてもらったの」
「まじか。……本気なんだな」
彼女はにこりと笑って、短く答えた。
「本気、だよ」
その言葉に迷いはなかった。
白い街灯の光を受けたその瞳の奥には、確かな“熱”が宿っていた。
「……それ聞いて安心したよ」
俺がそう言うと、彼女はふいに立ち止まった。
「ん、どうかした?」
俺は数歩先で振り返る。
街灯の下で、桜井さんがうつむいたまま、マフラーを指で軽く押さえていた。
小さく息を整えるようにして――やがて顔を上げた。
「吉野くん、東大に行きたいって――あの時、言ってたよね」
歩きながら、ふいに桜井さんが切り出した。
その声はいつもより少し小さく、風に溶けていくようだった。
「ああ……。あの“抱負を言い合ったとき”の話か。言ったな」
「それは間違いなく、吉野くんの本心だと思う」
桜井さんはそう前置きをして、ほんの一拍、沈黙を置いた。
そして――苦しそうに眉を寄せる。
「でも、本当は……その……」
言いたいのに言えない。
喉の奥で何かを押し殺すような声。
「桜井さん?」
「……本当は、吉野くんが東大に行きたい理由は――」
彼女は小さく息を吸い、目をそらさずに言った。
「渚さんを追って、同じ東京に行きたいから……なんだよね」
「――っ!?」
その言葉に、息が詰まった。
胸の奥を氷の針で刺されたような感覚。
言葉を探そうとしたが、何も出てこなかった。
「何言ってんだよ……。確かに、渚先輩はもうすぐ東京に行って就職するけど、それとこれとは――」
「うそ!」
桜井さんの声が、夜の静寂を切り裂いた。
彼女のまっすぐな瞳が、真正面から俺を射抜く。
「まだ吉野くんと関わり始めてそんなに長くはないけど……。
吉野くんが渚さんと一緒にいる時の表情とか、渚さんのことを話すときの声とか――見てればわかるよ」
「な、なにが……?」
「吉野くんは――」
彼女は震える声で、それでもしっかりと言葉を放った。
「枝垂渚さんのことが、好きなんだよね?」
時が止まったようだった。
何が起きているのかわからなかった。
――いや、わかっていた。
「はは……参ったな」
俺は苦笑して、視線を落とした。
冷えた空気を吸い込み、ゆっくりと呼吸を整える。
「確かに――渚先輩は俺の憧れだ。
桜井さんの言うように、浅からぬ好意もある……と思う」
それは嘘ではなかった。
でも、声に出した瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。
「渚さんに、そのことは伝えないの?」
桜井さんの声は、どこか震えていた。
「……」
答えられなかった。
風が、二人の間をすり抜けていく。
「もうすぐ会えなくなっちゃうよ。
吉野くんなら東大にもきっと受かって、東京にも行くと思うけど……その時には――」
言葉の続きを聞く前に、俺はハンドルを握り直した。
自転車のタイヤが、アスファルトの上を静かに転がる。
「吉野くん!」
桜井さんが慌てて俺の前に立ちはだかる。
吐く息が白く舞い、街灯の下で揺れた。
「気持ち――伝えなきゃ!」
「いや、いいって」
「よくないよ!」
「いいんだって!」
「よくない!」
俺たちの声がぶつかり合う。
そして、静寂。
風が止まり、遠くの住宅の明かりが滲んで見えた。
桜井さんは、まだ何か言いたげに唇を震わせていた。
俺はただ、それを見つめ返すことしかできなかった。




