第41話 返り咲き
始業式が終わったその日の夜。
俺はいつものようにコンビニでバイトに入っていた。
正月ムードが抜けきらないこの時期は、客足もまばらだ。
外では北風が吹きつけ、ドアのベルが鳴るたびに冷気が入り込んでくる。
お買い得品コーナーのかごの中には、未だに鏡餅が七割引きでいくつか売れ残っている。
俺がレジ前で補充用のドリンクを並べていると、入り口のほうで誰かがしゃがみ込んでいるのが見えた。
くせのある髪に、ゆったりとした姿勢。
――柿田さんだ。
「なにされてるんですか、柿田さん」
声をかけると、彼は紙を片手にこちらを振り返った。
背は高く一見、威圧感があるが、話すとどこかおっとりしている人だ。あと目が細い。
年齢は店長より三歳下の四十五歳。店のオープン時から在籍していて、業務の知識と経験では店長と並ぶほどだ。
渚先輩のようなてきぱきとテンポの速いタイプではないものの、どこか“職人”みたいな落ち着きがあって、仕事で困ったことがあれば、とりあえず柿田さんに聞けば間違いない――そんな存在だ。
「ああ、これを貼っといてくれと店長に頼まれてね」
柿田さんが貼っていたのは、夜間アルバイト募集の張り紙だった。
白い紙に「スタッフ募集!」の赤い文字が目立っている。
「ついに大々的に告知するんですね」
「みたいだよ。来月には枝垂さんも辞めるから、人手を増やしたいんだってさ」
「……なるほど。主婦の方だとなかなか夜勤は難しいですもんね」
「そうそう。夜はどうしてもねぇ」
柿田さんは指先でテープを押さえながら、ゆるい調子で言う。
――渚先輩が居なくなる。
わかっていたことだけど、こうして現実が近づくと少し寂しい。
それに――
「あ、そうそう。店長から伝言があったんだ」
「伝言?」
「吉野くんの高校で、もしバイトを探してる子がいたら紹介してくれってさ」
「高校で、ですか。……うち、進学校なんでバイトはあまり推奨されてないんですよ。委員会や生徒会、部活動の加入も進められていますし。僕みたいに家庭の事情があったり、何らかの事情で特例で許可されるパターンはあるんですけどね」
「そうだったねぇ。ま、頭の片隅にでも置いといてくれればいいと思うよ」
「了解です」
柿田さんはビシッと綺麗に張られた紙の端をもう一度整え、満足げにうなずいた。
「よし、これでよし」
「そういえば店長、ここしばらく休んでますよね」
「うん。年末から年始まで連勤だったから、しばらく休むそうだよ。なんでも奥さんと旅行に行くらしい」
「いいですね。たまには家族サービスもしないとってことですね」
「ほんとそう思うよ。店長も意外と愛妻家だからねぇ」
ふふっと笑いながら、柿田さんはカウンター横のコーヒーマシンを点検し始めた。
その仕草は慣れたもので、どのボタンの位置も手が覚えているようだった。
「柿田さんって、この店できたときからいるんですよね」
「そうだねぇ。もう十年近いかな。ここができた頃は、まだこの辺りも新築住宅ができ始めたころだったね」
「すごい……。オープンメンバーって、それこそ店長以外居ないんじゃ」
「あと一人いるけど、他はもうみんな居なくなっちゃったね」
「そう思うと、同じところで長く務めるって寂しいですよね」
「まぁね、でも仕方ないよ。出会いがあれば別れがある」
「ですね……」
やがて時刻は二十一時を過ぎたころ。
客はまばらで、電子レンジの稼働音と、店内のBGMが響く。
――そういえば。
俺はふと、思い出した。
ここの所、桜井さんをここで見ていない。
桜井さんをこの店で見かけたのは、あのクリスマスイブの夜が最後だった。
それまでは週に三回ほど、だいたいこの時間帯にふらっと立ち寄っていたのに。
年末年始で忙しいから?
いや――
考えれば答えはすぐに出た。
あの頃、彼女がこのコンビニに来ていたのは――現実から逃げるためだった。家庭の不和と、息の詰まるような束縛から、ほんの少しでも解放されるために。
そして、この時間のこの場所ではその“良い子”の桜井澪という肩書きを置いてこられた。
俺が初めて会ったときも、彼女はいつも見ていた姿ではなかった。
グレーのスウェットのセットアップ、白いスニーカー、耳の白いイヤホン、そして学校では見なかったおろした長く艶のある髪。
それが同じクラスの桜井澪だと気づくまで、ほんの少し時間がかかったくらいだ。
だからこそ――今、彼女がここに来ない理由も、はっきりしている。
もう、逃げる必要がなくなったからだ。
あの夜、家族が再び繋がった。
彼女の居場所は、ようやく元に戻ったのだ。
胸の奥に、言葉にできない静かな感情が広がった。
寂しさか、安心か、そのどちらともつかない感情だった。
そして同時に一つの俺の中の疑問に答えが見つかった。
そうか!
俺が初めてここで彼女を見たとき――
彼女のことが気になって目が離せなかったのは、
きっと“彼女の姿の中に一年前の自分を見たから”なんだ。
孤独と苛立ちを抱えて、行き場もなく、
それでもどこかで誰かに助けてほしいと思っていた、あの頃の俺。
だから、助けなきゃって――そう思ったんだ。
冬休みの勉強会のときの桜井さんを思い出しても、やっぱりそう感じる。
もう彼女は前を向いて歩き始めている。
もう、ここ――このコンビニに来る理由なんてない。
俺はホットドリンクコーナーのコーヒーを補充しながら、そんなことをぼんやりと考えていた。
……そのときだった。
「あのー」
背後から声がした。
やばっ、考えごとに夢中でお客様の邪魔をしていたか!
慌てて立ち上がり、反射的に頭を下げる。
「大変申し訳――って……え?」
言葉が途中で止まった。
目の前に立っていたのは、コートとマフラーを身につけながらも、見覚えのある服装――。
グレーのスウェットのセットアップに、白いスニーカー。
俺の脳裏に、最初に出会ったあの夜の姿がフラッシュバックした。
「そこのコーヒーを一本もらってもいいですか? 店員さん」
その声。
その瞳。
そう――桜井澪だった。
あまりの驚きに、思わず一歩後ずさる。
すると、彼女はいたずらっぽく口元を押さえて、
クスクスと控えめに笑った。
「ふふっ、そんな顔しないでよ。驚かせちゃった?」
寒さからか少し赤くなった頬。
そして、以前よりも柔らかい笑顔。
その姿を見た瞬間、
この場所に漂っていた冷たい空気が、ほんの少しだけ、温かくなった気がした。
「桜井さん!」
「お疲れ様、吉野くん」
その声を聞いた瞬間、俺は言葉を失った。
まさか本当に、彼女がこの店に現れるなんて。
桜井さんは少しいたずらっぽい笑みを浮かべながら首をかしげる。
「そんなに驚かせちゃった?」
「あ、いや……確かに驚いたけど、なんか久しぶりにここに来たなーって思って」
「そういえば、年が明けてからは初めてかも。冬休み中は習い事もあったし、年始は親戚の家に行ってて、家にいないことも多かったんだ」
「なるほどな」
「それにね、この冬休みの間は松野さんも長期休暇で、この時間の送迎もないしね」
「ってことは、今日は家から徒歩で来たのか!?」
「そうだよ」
桜井さんは小さく笑って、マフラーを少し整えた。
「……あ、前みたいにお母さんには内緒で来てるから、ちょっとドキドキしてるんだけどね」
その声が、どこか楽しそうで――懐かしかった。
「おいおい、大丈夫なのかよ。いくら両親の関係が戻ったとはいえ、そういうところはまだ厳しそうだけど」
「うん。正解!」
「正解って……そんな無理して来なくても、松野さんが復帰してからでもよかったんじゃ――」
「――たくなっちゃったから」
「え?」
その言葉に、思わず聞き返していた。
彼女は一歩近づき、マフラーで口元を隠しながらも、はっきりと言葉を紡いだ。
「会いたくなっちゃったから。……吉野くんに」
その瞬間、胸の鼓動が跳ね上がった。
まるで空気が一瞬だけ止まったように感じる。
桜井さんの頬は冬の空気のせいか、それとも別の理由なのか、ほんのり赤く染まっていた。
そして、その目はまっすぐに俺を見ていた。
――今思えば、このときからだったのかもしれない。
彼女が、本当の意味で変わり始めたのは。




