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夜のコンビニと君のブラックコーヒー  作者: アキラ・ナルセ
第4章 新年から恋愛クライマックス編

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第41話 返り咲き


 始業式が終わったその日の夜。

 俺はいつものようにコンビニでバイトに入っていた。


 正月ムードが抜けきらないこの時期は、客足もまばらだ。

 外では北風が吹きつけ、ドアのベルが鳴るたびに冷気が入り込んでくる。


 お買い得品コーナーのかごの中には、未だに鏡餅が七割引きでいくつか売れ残っている。


 俺がレジ前で補充用のドリンクを並べていると、入り口のほうで誰かがしゃがみ込んでいるのが見えた。

 くせのある髪に、ゆったりとした姿勢。


 ――柿田さんだ。


「なにされてるんですか、柿田さん」


 声をかけると、彼は紙を片手にこちらを振り返った。

 背は高く一見、威圧感があるが、話すとどこかおっとりしている人だ。あと目が細い。


 年齢は店長より三歳下の四十五歳。店のオープン時から在籍していて、業務の知識と経験では店長と並ぶほどだ。

 渚先輩のようなてきぱきとテンポの速いタイプではないものの、どこか“職人”みたいな落ち着きがあって、仕事で困ったことがあれば、とりあえず柿田さんに聞けば間違いない――そんな存在だ。


「ああ、これを貼っといてくれと店長に頼まれてね」


 柿田さんが貼っていたのは、夜間アルバイト募集の張り紙だった。

 白い紙に「スタッフ募集!」の赤い文字が目立っている。


「ついに大々的に告知するんですね」


「みたいだよ。来月には枝垂さんも辞めるから、人手を増やしたいんだってさ」


「……なるほど。主婦の方だとなかなか夜勤は難しいですもんね」


「そうそう。夜はどうしてもねぇ」

 柿田さんは指先でテープを押さえながら、ゆるい調子で言う。


 ――渚先輩が居なくなる。

 わかっていたことだけど、こうして現実が近づくと少し寂しい。


 それに――


「あ、そうそう。店長から伝言があったんだ」

「伝言?」

「吉野くんの高校で、もしバイトを探してる子がいたら紹介してくれってさ」


「高校で、ですか。……うち、進学校なんでバイトはあまり推奨されてないんですよ。委員会や生徒会、部活動の加入も進められていますし。僕みたいに家庭の事情があったり、何らかの事情で特例で許可されるパターンはあるんですけどね」


「そうだったねぇ。ま、頭の片隅にでも置いといてくれればいいと思うよ」

「了解です」


 柿田さんはビシッと綺麗に張られた紙の端をもう一度整え、満足げにうなずいた。

「よし、これでよし」


「そういえば店長、ここしばらく休んでますよね」

「うん。年末から年始まで連勤だったから、しばらく休むそうだよ。なんでも奥さんと旅行に行くらしい」

「いいですね。たまには家族サービスもしないとってことですね」

「ほんとそう思うよ。店長も意外と愛妻家だからねぇ」


 ふふっと笑いながら、柿田さんはカウンター横のコーヒーマシンを点検し始めた。

 その仕草は慣れたもので、どのボタンの位置も手が覚えているようだった。


「柿田さんって、この店できたときからいるんですよね」

「そうだねぇ。もう十年近いかな。ここができた頃は、まだこの辺りも新築住宅ができ始めたころだったね」

「すごい……。オープンメンバーって、それこそ店長以外居ないんじゃ」

「あと一人いるけど、他はもうみんな居なくなっちゃったね」

「そう思うと、同じところで長く務めるって寂しいですよね」

「まぁね、でも仕方ないよ。出会いがあれば別れがある」

「ですね……」


 やがて時刻は二十一時を過ぎたころ。


 客はまばらで、電子レンジの稼働音と、店内のBGMが響く。


 ――そういえば。


 俺はふと、思い出した。


 ここの所、桜井さんをここで見ていない。


 桜井さんをこの店で見かけたのは、あのクリスマスイブの夜が最後だった。

 それまでは週に三回ほど、だいたいこの時間帯にふらっと立ち寄っていたのに。


 年末年始で忙しいから?


 いや――


 考えれば答えはすぐに出た。


 あの頃、彼女がこのコンビニに来ていたのは――現実から逃げるためだった。家庭の不和と、息の詰まるような束縛から、ほんの少しでも解放されるために。

 そして、この時間のこの場所ではその“良い子”の桜井澪という肩書きを置いてこられた。


 俺が初めて会ったときも、彼女はいつも見ていた姿ではなかった。

 グレーのスウェットのセットアップ、白いスニーカー、耳の白いイヤホン、そして学校では見なかったおろした長く艶のある髪。


 それが同じクラスの桜井澪だと気づくまで、ほんの少し時間がかかったくらいだ。


 だからこそ――今、彼女がここに来ない理由も、はっきりしている。


 もう、逃げる必要がなくなったからだ。

 あの夜、家族が再び繋がった。

 彼女の居場所は、ようやく元に戻ったのだ。


 胸の奥に、言葉にできない静かな感情が広がった。

 寂しさか、安心か、そのどちらともつかない感情だった。


 そして同時に一つの俺の中の疑問に答えが見つかった。


 そうか!


 俺が初めてここで彼女を見たとき――

 彼女のことが気になって目が離せなかったのは、

 きっと“彼女の姿の中に一年前の自分を見たから”なんだ。


 孤独と苛立ちを抱えて、行き場もなく、

 それでもどこかで誰かに助けてほしいと思っていた、あの頃の俺。


 だから、助けなきゃって――そう思ったんだ。


 冬休みの勉強会のときの桜井さんを思い出しても、やっぱりそう感じる。


 もう彼女は前を向いて歩き始めている。


 もう、ここ――このコンビニに来る理由なんてない。


 俺はホットドリンクコーナーのコーヒーを補充しながら、そんなことをぼんやりと考えていた。


 ……そのときだった。


「あのー」


 背後から声がした。

 やばっ、考えごとに夢中でお客様の邪魔をしていたか!


 慌てて立ち上がり、反射的に頭を下げる。


「大変申し訳――って……え?」


 言葉が途中で止まった。


 目の前に立っていたのは、コートとマフラーを身につけながらも、見覚えのある服装――。


 グレーのスウェットのセットアップに、白いスニーカー。

 俺の脳裏に、最初に出会ったあの夜の姿がフラッシュバックした。


「そこのコーヒーを一本もらってもいいですか? 店員さん」


 その声。

 その瞳。


 そう――桜井澪だった。


 あまりの驚きに、思わず一歩後ずさる。

 すると、彼女はいたずらっぽく口元を押さえて、

 クスクスと控えめに笑った。


「ふふっ、そんな顔しないでよ。驚かせちゃった?」


 寒さからか少し赤くなった頬。

 そして、以前よりも柔らかい笑顔。


 その姿を見た瞬間、

 この場所に漂っていた冷たい空気が、ほんの少しだけ、温かくなった気がした。


「桜井さん!」

「お疲れ様、吉野くん」


 その声を聞いた瞬間、俺は言葉を失った。

 まさか本当に、彼女がこの店に現れるなんて。


 桜井さんは少しいたずらっぽい笑みを浮かべながら首をかしげる。


「そんなに驚かせちゃった?」


「あ、いや……確かに驚いたけど、なんか久しぶりにここに来たなーって思って」


「そういえば、年が明けてからは初めてかも。冬休み中は習い事もあったし、年始は親戚の家に行ってて、家にいないことも多かったんだ」


「なるほどな」


「それにね、この冬休みの間は松野さんも長期休暇で、この時間の送迎もないしね」


「ってことは、今日は家から徒歩で来たのか!?」


「そうだよ」

 桜井さんは小さく笑って、マフラーを少し整えた。

「……あ、前みたいにお母さんには内緒で来てるから、ちょっとドキドキしてるんだけどね」


 その声が、どこか楽しそうで――懐かしかった。


「おいおい、大丈夫なのかよ。いくら両親の関係が戻ったとはいえ、そういうところはまだ厳しそうだけど」


「うん。正解!」


「正解って……そんな無理して来なくても、松野さんが復帰してからでもよかったんじゃ――」


「――たくなっちゃったから」


「え?」


 その言葉に、思わず聞き返していた。


 彼女は一歩近づき、マフラーで口元を隠しながらも、はっきりと言葉を紡いだ。


「会いたくなっちゃったから。……吉野くんに」


 その瞬間、胸の鼓動が跳ね上がった。

 まるで空気が一瞬だけ止まったように感じる。


 桜井さんの頬は冬の空気のせいか、それとも別の理由なのか、ほんのり赤く染まっていた。

 そして、その目はまっすぐに俺を見ていた。


 ――今思えば、このときからだったのかもしれない。


 彼女が、本当の意味で変わり始めたのは。

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