第39話 俺はあの人が好き/私はあなたが好き
今日は一月六日。
冬休みもあと少しという中、俺はクラスメイトの大島彩花、橘海斗、そして桜井澪と勉強会の真っ最中だった。
外では冷たい風が吹いているというのに、大島家の二階の部屋は別世界だった。
ストーブの音がかすかに響き、こたつの上では湯気の立つマグカップが並んでいる。
「ねぇ吉野っちー! あたしもう三角関数と仲良くできないよー!」
大島彩花がシャーペンをくるくる回しながら眉をひそめた。
「ったく。仲良くする気がないだけだろ」
俺は苦笑して、彼女のノートをのぞき込む。
相変わらず途中の式が謎の“アート作品”みたいになっていた。
隣では桜井さんが真面目に教科書をめくっている。
「吉野くん、これで合ってる?」
「どれどれ……うん、完璧。ちゃんと覚えてるな」
「よかった……。期末でここ間違えたから、今度こそって思って」
「すごいじゃん澪っち!」
桜井さんの真剣な横顔を見ながら、こたつの反対側から声が上がる。
「おーい吉野先生ー!」
「なんだよ」
「そろそろ休憩にしないかー? 疲れちまったぜー! トイレも行きたいし!」
「お前なあ……。どうする二人とも?」
「うーん、確かにちょっと疲れたから休憩しよっか」
大島が言うと、桜井さんもうなずいた。
「やったぜ!」
橘は勢いよく立ち上がると、元気に言った。
「大島、わりぃけどトイレの場所教えてくんね?」
「オッケー!」
そう言って二人は連れ立って部屋を出ていった。
残されたのは俺と桜井さん、二人だけ。
桜井さんはペンを置くと、少し微笑んで言った。
「今日は吉野くん、みんなの先生役だね」
「確かにな。なかなか慣れないから、肩が凝るったらないぜ」
「私たちはすごくありがたいけど……吉野くんの勉強時間、削っちゃってるよね」
「あ、いや! そんなことはないよ」
俺は首を振った。
「やってみて初めて気づいたけど、誰かに教えると“自分が上手く説明できないところ”も見えてくるんだ。
あと、忘れそうな箇所の復習にもなるから……案外、実になってる」
「それならよかったけど」
桜井さんは小さくうなずく。
けれど、そのあと少し言いにくそうに言葉を探した。
「あ、それと……吉野くん」
「ん?」
桜井さんはこたつの縁に指を置いたまま、目線を落とした。
「あの、初詣の日……ちゃんと帰れた?」
「ああ、あの日な」
俺は少し笑って答えたが、胸の奥では――あの夜の出来事が静かに蘇っていた。
久々に見た父親の姿。
走り出した自分。
それを追ってきた彼女。
――そしてその後。
* * *
時は一月一日。元日に遡る。
渚先輩が――俺を抱きしめていた。
どうして?
頭の中が真っ白になる。
けれど、そのぬくもりだけが、はっきりと伝わってくる。
「……落ち着いた?」
「え?」
「震えてたから。――大河」
「俺、震えてました?」
「うん」
気づけば、さっきまで高ぶっていた心拍がゆるやかに落ち着いていくのを感じていた。
景色も音も、いつの間にか“いつもの世界”に戻っていた。
「あの、渚先輩……」
「ん?」
「あの、もう大丈夫です。その……恥ずかしいので。みんな見てますし」
「……」
先輩は俺を抱きしめていた両手を、瞬時に離した。
そして――。
「うりうり」
「うわっ!」
いつものように、俺の髪の毛を容赦なくくしゃくしゃにしてくる。
いや、今日はいつもより力が強い!
「いっててて!」
それを終えた先輩は、くるりと踵を返し、境内の出口に向かって歩き始めた。
「あ、ちょっと待ってください!」
「大河のばーか」
「え!?」
「なんでもない。さ、戻るよ。じゃないと私がバイトに遅れちゃう」
「あ、はい……」
その後、コンビニまでの道中、俺たちは――いつも通りだった。
ただひとつ違うのは、俺の心臓だけ。
脈がまだ、落ち着かない。
――たぶん、俺は。
枝垂渚のことが、好きなんだ。
* * *
こたつ越しには吉野くんがいた。
「ちゃんと渚先輩と一緒にコンビニに戻ったあとで、家に帰ったから大丈夫だったよ」
吉野くんは、私の問いにそう答えた。
その声も、表情も、いつもと変わらないように見えた。
――でも、分かってしまった。
ほんの一瞬。
彼が言葉を選ぶように、少しだけ目を伏せた瞬間。
きっと、あの時のことを思い出していたんだ。
渚さんと、あの夜の出来事を。
多分、吉野くんは――渚さんのことが好きなんだ。
当然だよね。
美人で、仕事もできて、誰にでも優しくて。
そんな完璧な“お姉さん”を、好きにならないほうが難しい。
……でも。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
自分でもよくわからないこの気持ちを、どうすればいいのか分からない。
だって、分かってる。
今の私じゃ、適いっこない。
「桜井さん?」
「あ、ううん!」
慌てて顔を上げる。
「ただ……あの日の吉野くんのこと、気にかかってたから。何もなかったみたいで、良かった!」
自分でも驚くくらい、明るい声が出た。
けれど、胸の奥のざわめきは――少しも消えていなかった。




