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夜のコンビニと君のブラックコーヒー  作者: アキラ・ナルセ
第4章 新年から恋愛クライマックス編

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第38話 すれ違い


 父親(親父)が、隣の女性と笑いながら歩いてくる。

 その姿が、俺たちのすぐ横を通り過ぎようとした瞬間――


 音が、消えた。


 人混みのざわめきも、風の音も、木々のざわめく音も。

 世界から一瞬、音という音が抜け落ちたようだった。


 父は、俺に気づく様子もなく、隣の女性と何か楽しげに話している。

 彼女が小さく笑うたびに、父も微笑んでいた。


(……気づかないのか?)


 胸の奥が締めつけられる。

 頭のどこかで「気づかないでくれ」と思いながら、

 もうひとつの声が「気づけよ」と叫んでいた。


 ――どっちも本音だった。


 通りすぎたあと、世界がゆっくりと動き出す。

 ざわめきが戻り、足音や笑い声が耳に戻ってくる。


 そのときだった。


「……大河、か?」


 背後から、低い声。


 心臓が一瞬止まる。


 俺は振り返らなかった。

 背中越しに、その声の主が確かに“親父”だとわかった。


 しばらく、何も言えないまま立ち尽くす。

 渚先輩も、桜井さんも、俺を見ている。


「大河……」

 渚先輩の声が、やけに遠く聞こえた。


 次の瞬間、身体が勝手に動いた。


 人混みをかき分けて、走り出していた。

 肩がぶつかっても、誰かの声が聞こえても、もう止まれなかった。


「――吉野くん!」

 背後で、桜井さんの声が響いた。

 けれどその声すら、すぐに風にかき消されていった。


 * * *


 どれくらい走っただろうか。


 気づけば、境内の人通りが少ない奥の方まで来ていた。

 吐く息が白く、肺の奥が痛い。


 あのとき――振り返っていたらどうなっていただろう。

 多分、怒りを抑えきれずに、親父の顔面を殴ってしまっていたかもしれない。


 だから俺は、逃げるのが最適解だと判断した。


「はぁ……はぁ……」


 肩で息をしながら、脇の柵に手をつく。

 胸の鼓動がやけにうるさい。


 そのときだった。


「――吉野くん!」


 聞き慣れた声。

 振り向くと、息を切らせながら桜井さんが駆け寄ってくる。


「桜井さん……!」


 彼女は小さく息を整えながら言った。

「はぁ、はぁ……吉野くん、大丈夫!?」


 あれ?

 桜井さんってこんなに必死な表情するんだっけか。


「あ、ああ……」


 桜井さんは鞄からハンカチを取り出し、そっと近づいてくる。

「な、なに?」


「すごい汗……」


 彼女はためらいもなく俺の額の汗を拭った。

 その動作が、妙に優しくて――俺は何も言えなくなった。


「ありがとうな。……それにしても、桜井さんや渚先輩を置いて走り出すなんて、俺、最低だな」


「ううん。なにか事情があるんだよね」


「……」


「私の家族のこと、助けてもらったから。今度は私が力になれたらって……そう思って」


 その真っすぐな瞳に、思わず目をそらした。


「桜井さんの家族は、ただのすれ違いだった。でも、あいつは――」

 言葉が勝手に漏れた。

「……他の女に浮気して、家族を捨てて出ていった。どうしようもない父親なんだよ」


「そう……なんだ」


 桜井さんは小さくつぶやき、目を伏せた。

 そして、顔を上げたときにはもう、真剣な目をしていた。


「だから、大丈夫。ありがとうな」


「でも!」


「え?」


「それでも私は――吉野くんの力になりたい!」


 彼女の声が、冬の空気の中にまっすぐ響いた。

 その瞳は震えていなかった。

 ただ真っすぐに俺を見ていた。


 * * *


 俺と桜井さんは、石段をゆっくりと下りながら来た道を戻っていた。

 さっきまで胸の奥で渦巻いていた熱は、少しずつ落ち着いていく。


 すると、前方から見覚えのある姿が見えた。

 渚先輩だった。


「すみません! 急に走っていっちゃって……」


 俺が頭を下げると、先輩はふっと微笑んでうなずいた。


「久々に会ったんでしょ? ――あれでよかったの?」

「っ……」


 言葉が出なかった。

 胸のどこかがまだ重く、まとまらない。


「……ま、いいけどね」


 先輩は軽く肩をすくめると、今度は桜井さんの方へ視線を向けた。


「澪ちゃん。私、このあとバイトなの。だから大河と一緒にコンビニに戻って解散するね。

 あなたはご両親のところへ行ってあげて。せっかくの初詣でしょ?」


「あ、はい。でも……」


 桜井さんは少し不安そうに俺の顔を見た。

 すると、渚先輩は優しい笑みで言った。


「大河のことは任せて」


 その一言に、桜井さんは一瞬だけ考えて――そしてうなずいた。


「……はい。よろしくお願いします! じゃあ、行きますね」


「うん! 今日は楽しかった! ありがとうね!」


「はい!」


 彼女は俺の方へ向き直る。


「じゃあ、吉野くん! また勉強会で会おうね!」


「ああ。だな」


 俺は短く答えた。

 桜井さんは笑顔を見せると、小さく手を振って背を向ける。


 風に乗って、彼女の髪がふわりと揺れた。

 そのまま、おみくじ売り場の方――両親の元へと歩いていく。


 その背中を見送りながら、

 俺は胸の奥に残った痛みと、ほんの少しの安堵を抱えて立ち尽くしていた。


 やがて、桜井さんが角を曲がり、姿が見えなくなった。


「じゃ、戻りましょうか。先輩」


 そう言って俺が彼女の方を振り向いた、その瞬間――


「え……?」


 何が起きたのか、一瞬わからなかった。

 だけどすぐに理解した。


 先輩が――枝垂渚が、俺を抱きしめていた。


「ちょ……! せ、先輩……!?」


 頭の中が真っ白になる。

 心臓の鼓動が、耳の奥で跳ねた。


 先輩の両手が俺の背中に触れている。

 柔らかくて、でもしっかりとした力だった。


 肩越しに、先輩の髪の匂いがかすかに届く。

 冬の空気の中で、そのぬくもりだけがやけに鮮明だった。


 時間が止まったように感じた。

 ただ、互いの呼吸だけが聞こえる。


 やがて、先輩が小さな声で言った。


「……落ち着いた?」


「え?」


「震えてたから。――大河」


 言われて、ようやく自分の手がわずかに震えているのに気づいた。

 それが怒りなのか、悲しみなのか、もうわからなかった。


 ただ、彼女の腕の中で、張り詰めていたものが少しだけほどけていくのを感じていた。



 * * *



 私が吉野くんと渚さんから別れ、曲がり角を曲がったとき――

 ふと思い出した。


「あ、そうだ……。このハンカチ、吉野くんに預けとこっかな」


 私は再びハンカチを取り出して、踵を返す。

 もう一度、二人のところへ戻ろうとした――その瞬間だった。


「……え?」


 思わず足が止まった。


 視界の先に映ったのは、信じられない光景だった。


 渚さんが――吉野くんに、そっと腕をまわしていた。


 いや、抱きしめていた。


 私は何も言えなかった。

 心臓が一瞬で早鐘を打ち始める。


 息を飲み、慌てて近くの木の影に身を引いた。手に持っていたハンカチが、指の間でくしゃりと潰れる。


挿絵(By みてみん)


「……そんな……」


 小さくこぼれた言葉は、白い息に溶けて消えた。

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