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第3話 風邪と熱

 

 あるの日の夜。


 裏の倉庫でゴミ出しを終えて戻ると、店先のベンチに桜井澪(さくらいみお)がいた。缶のブラックコーヒーを手に、片耳だけイヤホンをつけて夜の音を聴いている。


 学校で見る彼女とのギャップを感じて俺は彼女の横顔を見つめていた。


 俺に気づくと、彼女はイヤホンを外して微笑んだ。


「あ、こんばんは。お疲れ様、吉野くん」

「こんばんは。今日も来たんだ?」

「うん。いつも通り」


 10月後半の夜風は昨日より冷たかった。彼女はいつも通りグレーのスウェットのセットアップを着ていた。まだ暖かい日が続いていたから油断したのだろう。


「そろそろ夜は冷えてくるから、なにか一枚くらい羽織ってきたほうがいいんじゃないか?」

「そうだね。思ったより寒いね。ちょっと油断した」


 彼女は困ったような顔つきでさらっと言い切った。


 

 俺は軽くため息をつくと、ゴミ出しのときにロッカーから羽織っていった自分のジャケットを肩から脱いだ。ためらいはなかった。俺は彼女にそれを差し出した。


「え、いいの?」

「だって見てられないし」

「でも吉野くんが困るんじゃ」

「俺はもう一着あるから大丈夫。返すのはいつでもいいから」


 そう言って彼女に手渡した。


「……ありがと」


 彼女は目を細くして微笑んでから、そっと袖を通す。肩口が少し大きい。寒々しかった彼女がジップをあげきるのを見て、俺は少しほっとした。


 コンビニの白い照明に、小さな虫たちが集まっては離れていく。駐車場には仕事帰りの車が間を置いて停まり、また走り去った。


「……はっくしゅん」


 唐突に、彼女がかわいくしゃみをした。慌てて口元を押さえ、気まずそうに笑う。


「やば、やっちゃったかも」

「風邪、ひくなよ」

「大丈夫、大丈夫」


 そう言って、彼女は缶を傾けた。夜風が少し強くなる。俺は彼女の耳から外れたイヤホンに目をやり、どんな音楽を聴いているのかと喉まで出かかったが、結局尋ねなかった。


「じゃあ私は帰って勉強するね。それと、これ、ありがと。お仕事頑張ってね」

「うん。また明日学校で」


 彼女の背中が夜の街灯に溶けきるまで、俺はしばらく見送っていた。


「さて、仕事仕事」



 * * *



 翌朝のホームルーム。


 担任が出席簿を閉じ、教壇の上のプリントを整えながら言った。


「桜井は体調不良で休むそうだ。みんなも寒くなってきたから、気をつけるように」


(やっぱり言わんこっちゃない)


 心の中で苦笑したところで、担任が続ける。


「そうだ。桜井への連絡プリントと宿題を届けて欲しいんだが……そうだなあ、クラス委員の吉野、悪いが頼めるか?」


「あ、はい。わかりました」


 俺はそのあと視線を感じて振り向くと、後ろの席の橘海斗が片手で小さく親指を立てていた。



 * * *



 放課後。


 担任から受け取った封筒を自転車の前かごに入れて、教えられた住所へ向かう。住宅街の外れ、少し坂を上った先で、俺は自転車を止めた。


 白い塀。高い鉄の門。門柱の上で黒いカメラがゆっくり首を振っている。



「マジかよ。絵にかいたような豪邸じゃねーか」


 チャイムを押すと、すぐに澄んだ女性の声がした。


『どちらさまでしょうか』


「桜井さんのクラスメイトの吉野と申します。学校からの書類をお届けに来ました」


『少々お待ちください』


 短い沈黙のあと、門が電気仕掛けの音を立てて開いた。中には手入れの行き届いた庭。均等に刈り揃えられた植栽。俺の自転車が似合わない、と場違いなことを考える。


 玄関の扉が開く。エプロン姿の家政婦さんが現れ、会釈をした。


「どうぞ、こちらへ」


 靴を揃えて上がると、足元のカーペットが柔らかい。床暖房式なのかフローリングはじんわりと熱を持っている。廊下の壁には、抽象画が等間隔に掛かっている。音が吸い込まれ、家の中がやけに静かに感じた。


 家政婦さんに通されたリビングで待っていたのは、グレーのスーツ姿の女性――桜井の母親だった。ショートボブに控えめなアクセサリー。手元のタブレットを閉じ、こちらへ視線を向ける。


「澪のクラスメイトの吉野くん、だったかしら。ご丁寧にありがとう」


「いえ。クラス委員ですし、先生に頼まれまして。これ、プリントと宿題です」


 封筒を差し出すと、彼女は立ち上がり、受け取りながら軽く頭を下げた。その所作は流れるようで、隙がない。


「娘が学校でご迷惑をかけていないといいのだけれど」


「……いえ、そんなことは。娘さんはいつも真面目で、みんなの信頼があります」


 口をついて出たのは、昼の桜井澪の姿だった。夜の彼女を思い出しかけて、言葉を飲み込む。


「そう。なら安心だわ。もう少し勉強にも真面目になってくれるといいのだけれど」


 柔らかい声なのに、目はまっすぐだった。

 視線に含まれた温度を測りかねて、少しだけ肩に力が入る。俺は話題を変えることにした。


「彼女の体調は……?」


「かかりつけのドクターに来てもらったけれど、軽い風邪らしいの。じきに熱も下がるでしょう。明日はわからないけれど明後日には登校できると思うわ」


 澪の母親は時計に目をやり、また俺に視線を戻す。


「吉野くんは、クラス委員なのね」

「はい。雑用ばかりですが」

「いえ、そういう役目を引き受ける人が、結局はクラスを支えているのよ。確か以前どこかで見たか聞いた時に成績のほうも優秀だったと記憶しているわ」

「いえ、そんな」


 微笑。

 褒められたはずなのに、どこか試されている気がした。

 俺は小さく会釈を返す。


「では、これで失礼します。彼女にお大事にと伝えてください」


「吉野くん」


 踵を返しかけたところで呼び止められる。母親の声音はやはり穏やかだった。


「いえ、帰り道に気をつけて帰るのよ」

「……はい。気をつけます」


 背中に視線を感じた。

 礼をしてリビングを出る。家政婦さんに玄関まで見送られ、重い扉が閉まる。外気が頬に触れた瞬間、肩の力がふっと抜けた。


「ふう。なんかどっと疲れた気がするぞ」


(それにしても桜井さんの母親、どこかで見覚えがあるような、ないような)


 俺は自転車のハンドルに手をかける。塀の向こう側は、静かで大きい。

 夜のベンチとは、まるで違う静けさ。


(あの家で彼女が夜の顔を見せられない理由、ほんの少しだけわかった気がする)



 * * *



 その頃、桜井家――


 澪の部屋の灯りは薄く落とされ、ベッドの上には体を横たえた彼女がいた。

 うつらうつらと夢と現のあいだを漂っていると、軽くノックの音がした。


「澪、起きてる?」


 母・春香(はるか)の声だった。


「……うん、起きてるよ」


 ドアが開き、淡い香水の香りとともに母親が入ってくる。

 手には、学校の封筒を持っていた。


「クラスメイトの吉野くんという人が来てくれたわよ。先生からのプリントと宿題を届けてくれたの。ここに置いておくわね」


 澪のまぶたがゆっくりと開き、ベッドの上で身を起こす。


「吉野くんが……?」


 その名を口にしたとき、声にほんの少しだけ熱が混じった。


 春香は小さくうなずく。


「ええ。クラス委員だからか、責任をもって届けてくれたみたいよ。きちんとした子ね」

「……そうなんだ」


「お礼はまた、体調が戻ってから言っておくのよ。それと、なにか欲しいものはある? 飲み物とか、食べたいもの。あれば家政婦に言うのよ」


「ううん、だいじょうぶ。ありがとう」


 澪はかすかに笑ってみせた。

 春香はうなずき、部屋をちらりと一度見回す。

 整理された机、整ったベッド、その奥――クローゼットの扉が半分開いていて、そこに見慣れない黒いジャケットがかかっていた。


 春香は一瞬だけ目を留めたが、視線を戻すと何も言わずに微笑んだ。


「ゆっくり休みなさい」


 そう言って、静かにドアを閉める。

 足音が遠ざかると、澪は毛布を胸まで引き寄せ、天井を見上げた。


「そっか、吉野君がきてくれたんだ。でも、服を借りておいて見事に風邪ひいちゃうなんて……私のばか」


 そうつぶやくとクローゼットにかかる黒いジャケットに視線を移す。


 ――吉野くん、ありがとう。


 澪の意識は“熱”とともに再び夢の中へ溶けていった。


 ――その数分後。


 娘の部屋を出て、廊下に出た母親・春香は、階段を下りながらスマートフォンを手に取った。

 通話ボタンを押すと、数秒で男性の落ち着いた声が応じる。


『はい、どうされました社長』

「少しお願いがあるの。澪の様子、しばらく見張っておいてちょうだい」

『は、見張る、とは……?』

「そうね。学校の行き帰り、夜の外出。最近少し様子が変だから。

 もちろん、直接手を出す必要はないわ。ただ、記録しておいてくれるだけでいいわ」

『承知しました。報告はいつもの方法で』

「お願いね」



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