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夜のコンビニと君のブラックコーヒー  作者: アキラ・ナルセ
第3章 突撃のメリークリスマス編

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第33話 もう一つの祝い事


 コーヒーの香りが、ゆっくりとリビングに満ちていく。

 湯気の立つカップを前に、澪が両手で包み込むようにして言った。


「お父さん……やっぱりこの香り、好き」


 陽一はカップを傾けながら、穏やかに笑った。

「そうか。それは良かった」


 春香もゆっくりと一口を含む。

 その瞬間、わずかに肩を震わせ、目に涙が滲んだ。


「……そうね。私が今の会社を立ち上げたのも、

 元々はこのコーヒーを多くの人に知ってもらうためだったのよ」


「そうだったね」

 陽一がうなずく。

「でも僕たちは、いつしか自分のことしか見えなくなっていたんだ。僕は自分が“コーヒーを淹れること”だけに囚われて、春香は“会社を守ること”だけに必死だった――結果、どちらもその向こう側の“人の笑顔”を見失っていた」


 澪は二人の顔を見比べ、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「お父さん。お母さん。……また昔みたいに、みんなで力を合わせようよ」


 春香は唇を噛み、視線を落とした。


「そうね澪。でも……陽一さん。松野に聞いて知っているでしょうけど、今の私は、目先の利益を優先して、大口の契約を失った経営者失格の人間よ。違約金の支払いも発生するかもしれない。そんな私を――」

「いや、澪の言う通りだ」

 陽一の声がそれを遮った。

「僕のほうからも力を貸してほしい。

 そして、君のミスの件は、実はすでに僕が知り合いに対処を聞いて準備してある。それをどう切り出そうか考えていたところなんだ」


「あなた……」


「その代わりに、というわけじゃないけど」

 陽一は少し照れたように笑いながら続けた。

「君に、新しい《SAKURA COFFEE》のマーケティング戦略を考えてほしい。もう一度、僕たちの原点を形にしたいんだ」


 春香の目が静かに見開かれ、その頬にまたひとつ涙が伝う。


「……あなた……。わかったわ」


「決まりだね!」

 澪が嬉しそうに声を上げた。


 そのやりとりを、松野と梅宮は少し離れた場所で静かに見守っていた。

 二人の表情には、どこか安堵と誇らしさが入り混じっている。


 コーヒーの香りが、再びふわりと広がった。

 それは、家族という名のブレンドがもう一度ひとつになった証のようだった。


「良かったね、桜井さん」

「うん! ありがとう吉野くん!



 暖かな空気の中で、彼女と彼女の両親の笑顔を眺めていたその時だった。

 ――ブルルル、とポケットの中でスマホが震えた。


「……あれ?」

 画面には【瑞希】の文字。妹からだ。


「どうしたの電話? あ、もしかして瑞希ちゃん?」

「ああ、そうみたいだ。ちょっと出るわ」


 俺は一言断って席を立ち、少し離れた場所で通話ボタンを押す。


「もしもし?」


『ちょっとお兄ちゃん! いまどこにいるの!?』


 いきなり大きな声に思わずスマホを耳から離した。

「ど、どうしたんだよ。そんな大きい声出して」


『どうしたじゃないよ! 今日が何の日か忘れたの!?』


「……クリスマスイブだろ? それにお前は友達の家だって言ってたじゃん。母さんだって夜勤で――」


『それもそうだけど! 十二月二十四日はお兄ちゃんの誕生日じゃん!!』


「えっ」


『せっかくお母さんとサプライズでお祝いしようとしてるのに! バイトが終わってるはずなのに全然帰ってこないんだもん! 心配したんだよ!』


 電話越しに瑞希の怒りと焦りの混じった声が響く。

 その瞬間、俺は頭を抱えた。


 ――そうか。すっかり忘れていた。


 今日、十二月二十四日はクリスマスイヴであり――そして俺の誕生日でもあったのだ。


 思わず苦笑がこぼれる。


(ったく、俺ってば。いつも自分の誕生日のことは完全に抜けるんだよな)


 気づけば、後ろから澪が不思議そうにこちらを見ていた。

「吉野くん、どうしたの?」


「……いや、ちょっと、忘れてたことを思い出しただけ」

「忘れてたこと?」

「うん。俺、今日、誕生日だったわ」

「ええ!?」


『ちょっとお兄ちゃん!? 聞いてる!?』

「聞いてる聞いてる! すぐ帰るから!」


 通話を切ると、桜井家のリビングにはまた柔らかな笑い声が広がった。

 陽一がコーヒーを飲みながら言う。


「そうか誕生日か。……そりゃ今日は、二重に特別な日だな。せめてこのクリスマスケーキ、いや誕生日ケーキを食べてから行きなさい」


「え、でも」


 ここで松野さんが言った。

「帰りは私が責任をもって君を自宅まで送り届けよう。心配はいらない」

「ありがとうございます!」


 春香がやわらかく微笑む。

「本当なら吉野くんがプレゼントをもらう側だったということね。悪いことをしたわ」

「いえ、全然!」


 桜井さんが楽しそうに笑って言った。


「お誕生日おめでとう、吉野くん!」


「ありがとう!」



 * * *



 クリスマスケーキ――いや、“誕生日ケーキ”を食べ終えたあと、俺は松野さんの運転する黒いセダンの助手席に乗り、静まり返った夜道を走っていた。


 車の窓にはまだ雪が貼りついていて、街灯の光を受けてちらちらときらめいている。


「さ、ついたよ。ここでいいかな」

「あ、はい。ありがとうございました」


「いや、こちらこそだよ」

 松野さんはバックミラー越しにこちらを見て、穏やかに笑った。

「君は我々の恩人だ。また日を改めて私からお礼をさせてもらうよ」


 車のドアを開け、外の冷たい空気に触れる。

 すると助手席の窓が開き、後部座席から桜井さんが顔を出した。


「吉野くん!」


「ん?」


 白い息を吐きながら彼女は少しだけためらい、何かを言いたそうに俺を見つめていた。


 俺のほうが先に口を開いた。

「早く両親の元に戻ってあげるんだよ。まだ、イブは終わってないからさ」


 彼女はこくりとうなずいて――思い切ったように、でも小さな声で言った。


「あの、吉野くん……! 私と、ラインを交換してほしいの!」


「ライン? あ、ああ。そういえば直接はまだだったな。もちろんいいよ」


 俺達はスマホを取り出し、アカウントを交換する。ピロン、と小さな通知音が鳴った。


「……よし、これでいいな」


「うん。ありがとう」


 彼女が微笑む。車の暖房のせいか赤くなったその笑顔が、なんだか妙に目に焼き付いた。


「おやすみ」


「うん……おやすみ」


 窓が静かに閉まる。


 車が発進し、雪の道をゆっくりと走り去っていく。


 白い息を吐きながら、それを見送った。


 * * *


 鍵を差し込み、そっとドアを開ける。


「――お兄ちゃんお帰りなさい!!」


 パンッ!!


 部屋の中で、今さっき聞いたようなクラッカーの音と共に紙吹雪が舞い上がった。


 テーブルの上には、俺の家とは思えないほど豪華な手作りの料理。


 そして、ろうそくが立ったホールケーキ。中央にはお誕生日おめでとうと書いたプレートのチョコレートが立っており、中央には“たいが”とひらがなで書いてある。


挿絵(By みてみん)


「……なにこれ! すげぇ!」


「サプラーイズ! ま、もうバレてるんだけどね」

 エプロン姿の妹――瑞希が両手を広げて立っていた。


「お母さんと一緒に準備したんだよ! 夜勤だって嘘までついてもらってね!」

「マジかよ……」


 台所の奥から、エプロン姿の母さんが顔を出した。

「おかえり、大河。お誕生日おめでとう」


「え、あ……ありがとう」


 なんだろう。

 さっきまでいた桜井家のリビングとは違うけど、

 同じくらい、あたたかかった。


 瑞希がテーブルの向かいに座って得意げに言う。

「はい! ケーキはちゃんとお兄ちゃんの好きなチョコ味!」

「お前……そんなの覚えてたのか」

「当然でしょ。妹だもん!」


 母さんが笑いながらジュースを注ぐ。

「最近はゆっくり話せなかったものね。今夜くらいは、ゆっくりみんなで過ごそう」


「……ああ、だな!」


 グラスを持ち上げると、瑞希がにこっと笑って合わせた。


「誕生日おめでとう、お兄ちゃん!」

「おめでとう大河!」

「ありがとう!」


 その時は気づかなかったが――この瞬間、俺のスマホが、ピコン、と小さな音を立てていた。


 画面には、ひとつのメッセージが届いていた。


『今日はありがとう! おやすみなさい、サンタさん』


 差出人は――桜井澪。


 外ではまだ、雪が降り続いている。

 でも部屋の中は、もう春のように温かかった。


「でもお兄ちゃん」

「ん?」

「なんでお兄ちゃんってばサンタの恰好してんの?」

「あ、着替えるの忘れてた……」


 そして――俺の一年でいちばん長くて、いちばん幸せな夜が、静かに更けていった。 


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