第32話 サクラブレンド
クリスマスキャンドルの火がゆらめく中、陽一がゆっくりと語り掛ける。
「さて……吉野くん、といったかな?」
俺は背筋を伸ばして返事をした。
「あ、はい」
桜井さんのお父さんはグラスから手を離しながら、穏やかな声で続ける。
「まずは――こうやって身体を張ってまで、僕たち家族のことを考えて動いてくれたことに感謝する。これはもちろん、松野くんや梅宮さんにもだ。本当にありがとう」
そう言って、深く頭を下げた。
「い、いえ! こうやってまた家族が和解してくれたみたいで……よかったです。お父さん」
思わずそう言った瞬間――。
「君に“お父さん”と呼ばれる筋合いはないがね」
「あ、はい」
(距離感、難しいな)
なぜか桜井さんは隣で顔を赤くして俯いていた。
桜井さんのお母さんがそれに気づき、柔らかい声を出す。
「澪……私、あなたの変化にもまったく気づかないくらいに、仕事ばかりだったわ。本当にごめんなさい。
なんだか、やっと目が覚めた気分よ」
「お母さん……」
春香はそっと手を伸ばし、娘の肩に触れる。
その光景を見ながら、俺は思わず微笑んでいた。
「よかったな、桜井さん。お母さんが戻ってくれたみたいで」
「うん……」
ほんの少し涙をにじませながら、彼女がうなずく。
すると、今度はお母さんが俺に視線を向けた。
「あなたに“お母さん”と呼ばれる筋合いはないけれどね」
「あ、はい……」
(だめだ迂闊にしゃべれねえ……)
その様子を見ていた梅宮さんが、後ろで小さくくすっと笑った。
おそらく、このやりとりも“桜井夫妻なりの冗談”なのだろう。
リビングに笑い声が広がり、先ほどまでの冷たい空気は、もうどこにも残っていなかった。
笑いが落ち着いたところで、俺はそっと立ち上がった。
「……それじゃあ、部外者はそろそろ帰ります」
そう言って軽く頭を下げる。
すると、お父さんがすぐに手を上げて止めた。
「まぁまぁ。せめて僕が淹れるコーヒーを飲んでいってくれないか? 君が持ってきてくれたクリスマスケーキもあることだし」
「え、でも……いいんですか?」
「娘はやらんが、借りは作りたくないしね。さぁ、座っているといい」
(なんだこの人)
そして、やっぱり桜井さんが顔を真っ赤にして俯いていた。
「お、お父さん……!」
母がそんな娘を見て、ふっと笑みを漏らす。
「待って、梅宮さん。このクリスマスケーキは私が切るわ。あなたも座っていて」
「あ、はい。では、お言葉に甘えて」
母は立ち上がり、キッチンへ向かう。白いケーキの箱を開け、ナイフを手に取る。
握り慣れていない手つきで、たどたどしくナイフを動かすその姿が、どこか微笑ましい。
「懐かしいなあ。昔はこうだったよね」
そんな親子二人の姿を見て、梅宮さんが優しく言う。
「どんな取り寄せた高級なケーキよりも、こういうケーキの方がいいですよね」
「確かに」
松野さんがうなずく。
その一方で、父は静かに立ち上がり、キッチンの奥の棚を開ける。そこから取り出したのは、見覚えのある銀色のドリップポットと、桜の花をあしらった木箱だった。
「――サクラブレンド、ここでこれを使うのは久しぶりだな」
豆を計りにかけ、正確にグラム数を量る。
無駄のない動き。
お湯を沸かすタイミング、フィルターを湿らせる手際。
そのすべてが、カウンターに立っている“店主”の所作だった。
お湯を注ぐと、ふわりと香りが広がる。
「わー、いい匂い」
「本当だな」
桜井さんと俺がそう反応した。
母もケーキのナイフを置き、その香りを吸い込む。
「……懐かしい。変わってないのね、この香り」
「味は少し変えたよ。今の自分に合わせてね。」
(プロって、こういう人のことを言うんだな)
香ばしい香りがリビングを満たす頃、カップが六つ、丁寧にテーブルへと運ばれる。
「――できたよ。サクラブレンド。久しぶりに飲もう。みんなで」




