第27話 俺の憧れ
体育館の中は、ひんやりとした冬の空気に包まれていた。
足元の床からじわじわと冷気が伝わってきて、全校生徒の吐く息がうっすら白く浮かぶ。
俺は制服のポケットの中で、カイロを握りしめた。
壇上では、校長先生がマイクを手に、生成AIが書いたような原稿を読み上げている。
「――えー、みなさん。今年も一年を振り返ってみますと……」
一見、誰もが静かに耳を傾けているように見えるが、誰もがもう心ここにあらず――そんな時間。
俺は視線を少しだけ斜め前にずらした。
数列先、女子の列の中に桜井さんの姿が見える。
まっすぐ前を見つめているその横顔には、どこか遠いものを感じた。
(……大丈夫かな)
昨日、コンビニのあのベンチで話した言葉がよみがえる。
あのとき、彼女は笑っていたけれど――
やがて、「以上です」という言葉が聞こえたとき、体育館の中にほっとしたような空気が広がった。
そして解散。
ざわざわとした人の流れが出口へ向かう。肩がぶつかり合い、上履きの音が反響する。
冬休み前の、あの独特な浮ついた空気。
廊下を抜けて教室に戻ると、橘がいつもの調子で肩を回した。
「ふぅー、終わったなー。これでやっと冬休み!」
「そうだな」
教室の窓の外では、灰色の空から大粒の雪が舞っている。
すでに校庭は一面“白一色”だった。教室の暖房器具の周りには生徒が集まって身体を温めている。
このあと、みんなは友達同士で遊びに行ったり、恋人や家族と過ごしたりするんだろう。
ふと視線を前の方に向けると、教室の中央あたりで、大島さんが楽しそうに桜井さんへ話しかけていた。
「ねぇ澪っち! このあと、あーちゃんたちと駅前行くんだけど、一緒にどう? クレープ食べに行こうよ!」
「え、いいの? うん、行く!」
桜井さんは少し驚いたように笑って、それから嬉しそうにうなずいた。
大島さんは「やったー!」と声を上げて、隣の席の友達とハイタッチしている。
(……ま、底抜けに明るい大島さんと一緒なら、とりあえずは安心だな)
やがてホームルームのチャイムが鳴る。
「はい、浮かれてるところ悪いが静かにー」
担任の笹沼先生が入ってきた。
四十代半ば、少しお腹が気になるお年頃の先生だ。
みんな粛々と自分の席に着く。
「さて、終業式も終わったところで、冬休みの過ごし方について注意事項!」
「また始まったよ……」
と誰かがぼそっとつぶやく。
「そこ、静かにー。まずは宿題! 提出忘れたら年明けで地獄を見るぞー!」
「先生、それ夏休みの時も言ってた!」
「言ったけど聞かないやつがいるから今年も言うんだぞー!」
教室の笑いが広がった。
後ろの席の橘が身を乗り出してきた。
「なぁ、このあと俺んちでゲームでもやんね?」
「あぁー行きたいけど、俺このあとバイトだからなぁ」
「大河、お前クリスマスイブまでバイトかよー」
「まぁな。橘は先生の言う通り、まず先に宿題を終わらせた方がいいんじゃないか?」
「いや、俺は背水の陣を敷くつもりだから」
「お前、前回もその背水で溺れてたじゃないか……」
「それを言うんじゃねー」
「吉野と橘、静かにしろー」
「「すみません」」
クラスのみんながクスクスと笑っていた。その中の桜井さんの笑顔を見て、俺は安心したのだった。
* * *
夜。コンビニ。
外は暗く、雪がこんこんと降りしきっている。駐車場は真っ白で、来店は車が中心だった
店内には楽しげなクリスマス専用のBGMが流れていた。
入り口には、店長と柿田さんが準備をしたらしいクリスマスツリーが今年も電飾を光らせている。
俺と渚先輩は、店長が用意したサンタクロースのコスチュームに身を包み、接客をしながら今日限定のホールケーキをお客さんにさりげなく売り込んでいた。
(去年もそうだったけど……なんで全身サンタコスチュームなんだ。せめて店長や柿田さんみたいに帽子だけでいいんじゃ……)
そんなことを考えていると、背後から突然声がした。
「まぁまぁ、とっても似合ってるよ吉野くん。さぁ頑張ってクリスマスケーキを売りきろうね。あと六箱だから」
「て、店長! だからいつも急に後ろから出てこないでくださいよ! てか、人の心を読まないでください!」
隣のレジでは、渚先輩が会社帰りのサラリーマンを相手にレジ打ちをしながら、巧みにセールスを仕掛けていた。
「お客様、よかったら娘さんにクリスマスケーキなんていかがですか?」
「え? 君、どうして僕に娘がいるって……」
「さきほど、お客様のスマホのホーム画面に可愛い娘さんが映っているのが見えてしまったので」
枝垂渚の営業スマイルは、普段の彼女をまったく感じさせないほどの気持ちのいい笑顔だった。
見慣れているはずの俺も、思わず見惚れてしまう。
「そうなんだよ。五歳になったばかりなんだけどね。毎日うちに帰るのが楽しみでね。クリスマスケーキかぁ……ママがもう買ってると思うからなぁ」
「この時間ですので二割引きになってますし、お得ですよ。それにこちらは消費期限が明日までですので、今日は奥様が買われたものを食べていただいて、こちらは明日用にとっておいてください」
「……まぁ、それもありかぁ」
「娘さんからの株も上がりますよ!」
「はは、負けたよ。じゃあ一つもらおうか」
「ありがとうございます!」
この気持ちのいい彼女の接客は、なかなか真似できるものではない。けれど、覚えておいて損はないなと思った。
「さ、さすがは先輩……」
店長も感心したようにうなずく。
「うんうん」
「ありがとう」
「ありがとうございましたー! またお越しくださいませー」
渚先輩の声に合わせて、俺と店長も声をそろえる。
「ありがとうございました!」
お客さんが店を出ていくと、渚先輩は俺の方を見て、どうだと言わんばかりのドヤ顔を見せた。
「さて――大河くんは、今日は何個ケーキを売ったのかなー?」
「む……」
俺は去年のクリスマスイヴを思い出す。あのときも、俺と先輩はホールケーキの販売数を競っていた。
結果は、俺が一個も売れずに完敗。苦い記憶だ。
「今のところ、二箱です」
「おっ、でも去年を思えば成長したじゃん!」
「先輩は今ので七箱……。ということは、残りの五箱を俺が売り切ればまだ勝てる……」
「その意気や良し!」
渚先輩はそう言って笑い、視線を俺から店長へと移した。
「それと店長。今年も仕入れ過ぎですよ」
「いやー、あはは。去年みたいに枝垂さんが頑張ってくれるかなーと思ってね」
「はぁ……そんな調子で、来年はどうするんですか」
「来年は――」
店長が俺の背中をぽんと叩いた。
「え?」
「来年は大丈夫さ。吉野くんがいるからね」
「店長……」
枝垂渚は腕を組んで、呆れたようにため息をつく。
「店長が頑張ってくださいよ」
「確かに……」
「はい……」
結局そのあと、俺の販売数は三個に留まった。言うまでもなく渚先輩には勝てなかった。
来年、渚先輩は東京で社会人。
もうこうして並んでケーキを売ることもないのかと思うと、少しだけ胸が寂しくなる。
渚先輩はそんな俺の頭をくしゃくしゃと撫でながら言った。
「三個なんて、よく売ったね! お客さん達も喜んでたじゃん」
「はい……。でも、悔しいです」




