第22話 少し変わった桜井さん
俺と瑞希、それに桜井さんの三人でショッピングモールを回った翌日。
月曜日の朝の教室は、いつもと少しだけ違う空気に包まれていた。
いつもなら誰かの笑い声と、机の椅子を引く音が混ざり合うだけのはずの時間。
けれど今日は、どこかざわついている。
理由は――もちろん、桜井さんだ。
彼女は高校一年の頃からずっと髪を束ねていて、眼鏡をかけていた。少し長めの前髪が、まるで自分の思いや存在を隠すように瞳と眉を覆っていた。
でも、今の彼女は違った。
肩のあたりで軽く揺れる髪。
前髪が短くなったおかげで、表情がはっきりと見える。そして眼鏡を外した彼女の瞳は、いつもよりまっすぐで、どこか芯のある光を帯びていた。
俺だけはその変化をすでに知っていた。
昨日、あのモールで――あの笑顔を見たから。
いや、変わったのは見た目だけじゃない。
桜井さん自身が、少しずつ前に進もうとしている。そんな気がした。
だから、そんな彼女の変化に周りがどう変化するのかを見守りたくて俺はこうして少し早くに教室にいる。決して今日が日直の割り当てだからとかそんな理由じゃないのだ。
俺は自分の席に座りながら、彼女の一挙手一投足を見つめていた。
そして――。
「お、おい! 大河……あれ、見ろよ。いったいどうなってんだ……!」
後ろの席の橘が、声をひそめながら俺の肩をつついた。
クラスの視線が一斉に入り口に向かう。
彼女は昨日よりも少し緊張した表情で、でも確かに――笑っていた。
「さぁ? どうなってんだろうな」
俺はとぼけながらそう答える。
橘が呆気に取られている横で、桜井さんは以前より背筋を伸ばし、堂々とした様子で俺の右前の席まで歩いてきた。
目が合う。
彼女の瞳の奥に、昨日と同じ光が見えた。
「おはよう、桜井さん」
「うん。おはよう、吉野くん」
そんな俺達の空気を吹き飛ばすように――
「澪っちー!! 元々可愛かったのに、めっちゃ可愛くなってる!!」
声の主は大島彩花――クラスでも元気印で通っている女子だ。
勢いのままにいつものように桜井さんへ抱きつく。
「わ、わっ!? 大島さんっ!?」
「もぉー、“大島さん”じゃなくて“彩花”でいいってばー!」
「な、名前で……?」
桜井さんは少し戸惑ったように眉を下げる。でも、それから笑って言った。
「……じゃあ、彩ちゃん、でいい?」
一瞬の静寂。そして次の瞬間――。
「澪っちーっ!! 嬉しい!!」
大島さんが再び抱きつく。ぎゅうっと。
「ちょ、ちょっと彩ちゃん、痛いってば……!」
そのやり取りに、周囲から笑い声がこぼれた。
橘が小声で俺に言う。
「なんだか桜井さん、明るくなったな」
「ああ。……だな」
俺も同意しながら、前の席の彼女を見つめる。
彼女の周りには、自然と人の輪ができていた。
「ねぇねぇ桜井さん、その髪かわいいね! どこで切ったの?」
「コンタクトにしたの? どこの使ってるの?」
「桜井さんって、こんなに可愛かったっけ?」
女子たちの声が次々と飛び交う。桜井さんは頬を染めながらも、一人ひとりに丁寧に答えていた。時折見せる笑顔が、教室全体をやわらかく照らしているようだった。
「おぉ……すげぇ人気だな」
橘が感心したようにつぶやく。
俺は苦笑しながらも、少し誇らしい気持ちになっていた。
――昨日まで、ほんの少し影を背負っていた彼女が、今はこんなにも自然に笑っている。
コンビニでのみ見せる彼女のあの横顔がちゃんと多くの人へと広がっていく。
やがてホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り、先生の「お前ら席につけー」という声が響くまで、桜井さんの周りから人が途切れることはなかった。
* * *
放課後――
俺たち日直の掃除時間になり、教室には俺と桜井さんの二人だけが残っていた。
夕陽が差し込む窓辺に、埃の粒がきらきらと漂っている。
桜井さんは背伸びをしながら黒板を拭き、俺はモップで床を磨いていた。
ふと彼女の右手の甲が目に入る。相変わらずそこには宿題のページ番号が、ボールペンの跡として残っていた。
「なんだか、私たちって日直でかぶること多いよね」
「確かにな。……偶然にしては多い気がするよな。なにか特別な力が働いている気がするな。……ま、それはそれとして、今日は疲れたんじゃないか?」
「ふふ。ちょっとね。今日はたくさんの人と話したから、ちょっと疲れたけど……でも嬉しかったし、楽しかった」
「そうか。初めてのことだったもんな」
「うん、びっくりしたけど……あんなふうに話しかけてもらえるなんて思わなかった」
そう言って、桜井さんは黒板の端を拭きながら微笑んだ。
その横顔を見て、俺は心のどこかで安堵していた。
「そういえば、髪を切ったこと……お母さんにはもう言ったのか?」
「ううん、まだ。お母さん、明日の夜まで仕事で出張だから。髪を切ったことも、まだ知らないの」
「そうか。驚くだろうな」
「でもね、一応お小遣いの範囲でやったから、その辺は大丈夫だと思う。ただ……ちょっと話しておきたいこともあるの」
「話したいこと?」
「うん。私、これから学校で“なにか”やってみたいの。お母さんの考えもあって、今までは家で家庭教師とか習い事をしてたけど……それをやめて、学校で部活みたいな活動をしてみたいって思ってるんだ」
思わずモップを止めて、俺は彼女を見た。
背伸びをして黒板を拭く彼女の姿が、夕陽に照らされてまぶしかった。
「いいじゃないか。やりたいことがあるのは、悪いことじゃない。確かにほとんどの生徒は何かしら部活とか委員会とか、何かしらの活動をしてるもんな。俺みたいに家庭の事情でバイトしてるやつも何人かいるけど」
「うん。来年は私たちももう三なことをやってみたいの。“高校生活でしかできないこと”って、きっとあると思うから」
「なるほどな。……問題はそれをどうやってあのお母さんに話すか、だな」
「そうなの。お母さん、最近ずっと忙しくて……ちゃんと話す時間が取れるかわからなくて。でも、伝えなきゃいけないことだから、年内には頑張って話してみるつもり」
「そうだな。もう来週には冬休みだしな。なんとかタイミングみて説得してみろよ。お母さんも本当は、桜井さんが頑張ってるのを喜ぶと思うし」
「……ありがとう、吉野くん。そう言ってもらえると、少し勇気出る」
彼女は黒板消しを片手に、ふっと笑った。
「そんで大島さんや橘たちと冬休みの勉強会も一緒にできるといいな」
「うん、やりたい! みんなで勉強したらきっと楽しいと思う」
そう言って笑う桜井さんを見て、俺の口から自然と言葉がこぼれた。
「まぁ、もしうまくいかなかったら……また俺が相談に乗るよ。それか、前みたいに桜井さんの家に乗り込んででも説得してやるさ」
「ふふっ、本当に困ったらお願いするかも! でもまずは私が頑張るよ」
「もちろん半分冗談だよ。半分は本気だけどな」
「もー。そういうとこ瑞希ちゃんに似てきたね」
「かもな」
そんなふうに笑い合いながら、俺たちは最後の机を片付ける。
穏やかで、新しい空気の流れる放課後だった。




