第18話 大河の過去
「……吉野くん」
スマホの画面に映るグループチャットの通知。
その中にあった“吉野大河”の名前を、私は指先でそっとなぞった。
しばらく見つめたあと、スマホをぎゅっと握りしめ、走り出す。
玄関でスリッパを脱ぎ、スニーカーに履き替える。
扉を開けると、冷たい風が頬を打った。空には雲がかかりすでに雨が降り始めている。
それでも、迷わず外へ駆け出した。
* * *
コンビニ。
駐車場には車が一台。
その車の中ではサラリーマンが寝落ちしていた。
「店長~、雨、振ってきましたね。入口に傘出しておきますねー」
「うん、さすが枝垂さん。よろしく頼むよ」
枝垂渚が手慣れた様子で透明のビニール傘をドア横のスタンドに並べていく。
~♪
軽快なBGMが流れる中、ドアのチャイムが鳴った。
「いらっしゃいま――」
顔を上げた渚の声が止まる。
「……澪ちゃん!?」
ドアの向こう、雨に濡れたスウェットの裾。濡れた髪が頬にはりつき、澪は小刻みに肩を震わせていた。
「ちょっと、こんな雨の中……傘も持たないで来たの? いつもの送迎の人は?」
澪は渚の問いに答えず、ただ視線を下げたまま。
「……しのくん」
「え?」
「吉野くん、いますか?」
渚は少し驚いたように眉を上げる。
「……大河なら今日は休みだよ。――とにかくちょっと待ってて、タオル持ってくるから」
そう言い残し、渚はバックヤードへと駆けていった。
カウンターの明かりが、濡れた床に反射してきらめく。
* * *
――バックヤード。
「じゃあ、しばらく僕は表に出てるから。枝垂さん、この子を頼むね」
「はい、店長。ありがとうございます」
「いいっていいって。どうしても対応できなかったら呼ぶかもしれないけど」
そう言って店長は軽く笑い、ドアを閉めて出ていった。
古びた石油ストーブの音が、静かな部屋の中でぽつぽつと鳴っている。
そんな中、澪はパイプ椅子に腰を下ろし、俯いていた。その後ろで、渚がタオルを手に優しく髪を拭いている。
「……あの、ありがとうございます。急にこんな、迷惑かけて」
「全然。気にしないで。あ、そういえばさ」
渚はふと笑みを浮かべた。
「昔、大河にも似たようなことがあったんだよ。あの時のアイツもびしょ濡れになってさ」
「吉野くんにも……?」
「そ。澪ちゃんは知らないんだもんね。あいつ、昔は今みたいに真面目じゃなかったんだよー」
澪は少し驚いたように顔を上げる。
「そうなんですか? 私が知ってる吉野くんは……真面目で、優しくて、強くて」
「そうだね。今はそういう顔してる。でも、あの時の大河は、ちょっと違った」
「……」
ストーブの灯が小さく揺れた。
雨音が、少しずつ強くなっていく。
「澪ちゃんは大河の家の話、聞いたことある?」
「えっと……母子家庭ってことまでは、聞いてます」
「そう。それでね……過程は省くけど、大河のとこの両親は色々あって離婚してるの。お母さん、ひとりで育ててるみたいで、結構苦労してるらしいよ」
澪は小さく息を呑む。
渚はタオルを動かしながら、静かに続けた。
「大河自身もね、昔はお父さんとずいぶん喧嘩してたみたい。そのせいもあって、ちょっと荒れてた時期もあったんだ」
「……そうだったんですか」
「うん。でも、そんな時期があって今がある。だから私、あの子を見てるといつも思うんだ。――人は、ちゃんと変われるんだってね」
「よし、あとはストーブに当たってれば乾くと思うよ」
「ありがとうございます」
渚は立ち上がり、ロッカーを開けて青色のカバーがついたスマホを手に取る。
「ちょっとそのまま待ってて。――すぐ戻るから」
「え?」
そう言い残して、彼女はバックヤードを出ていった。
残された澪は、温かな空気の中で両手を膝に重ね、ストーブの音を聞きながら、そっと目を閉じた。
やがて。
――コトン。
白いテーブルの上に、缶が置かれる音。
澪が顔を上げると、渚が黒いラベルの缶コーヒーを差し出していた。
「はい、これ。澪ちゃんのお気に入りでしょ? 今度こそ一緒に飲も」
「……ありがとうございます。いただきます」
ふたりの指が、缶のプルタブにかかる。
プシュッ
心地いい音とともに、ほのかな湯気が立ちのぼる。
「……あったかい」
「でしょ? 私も缶コーヒーは久しぶり」
渚は軽く笑いながら、自分の缶を傾ける。
渚はスマホを手に取って画面を確認すると、眉をひそめた。
「あーもう! 大河のやつ、こんな時に限って電話出ない。ほんとタイミング悪いなー。たぶん期末テスト開けでもう寝てるんだきっと」
「ふふ……。いいんです、もう。渚さんのおかげで、少し落ち着きました」
「そっか。
――でも、さっきの話ね。大河って、自分の昔のことを話されるのあんまり好きじゃないの。だから、聞かなかったことにしてあげて」
「はい、わかりました」
澪は素直にうなずく。
「それにね、完璧な人なんてどこにもいないんだよ。私だって、ふたりから見たら“大人”に見えるかもしれないけど、私には私の悩みがあるし」
「……そういうものなんですね」
「そういうものです」
渚は笑顔でそう言って、缶を軽く掲げた。
外ではまだ雨が降り続いていた。けれど、澪の中の冷たいものは、少しずつ溶けていくようだった。
やがて澪は立ち上がり、深く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました。……もう大丈夫です」
「もういいの? 何かあったんなら、私でよければ話を聞くけど」
「ありがとうございます。でも、あんまりここにいると……また家で騒ぎになっちゃうので」
渚は少しだけ眉を下げて笑う。
「そっか。じゃあ――せめて、私と連絡先交換しよ」
スマホを取り出し、アプリのQRコードを表示する。
「今回みたいに大河がいない時は、私が力になるから」
澪は目を瞬かせたあと、ゆっくりとうなずいた。
「……はい。その時はお願いします」
読み取り音が小さく鳴る。
「よし、登録完了。じゃあ、これ」
渚はロッカーの横から一本の傘を取りあげた。
「何年も前のお客さんの忘れ物だけど、ちゃんと使えるから。持っていって」
「ありがとうございます。……何から何まで」
澪は深く頭を下げ、ストーブの前を離れる。
「コーヒー、ごちそうさまでした」
「うん、またおいで。今度は晴れた日にね」
「はい」
――そう言って澪は帰っていった。
一人になったバックヤードで、渚は片づけをしながらふっと息をついた。
「大河……今度は、君が誰かを助ける番だよ」
その小さな独り言は、ストーブの音にかき消されるように静かに消えていった。
* * *
そのころ――主人公こと吉野大河はというと。
「んー……もう食べられない……」
こたつに突っ伏したまま、寝言をつぶやく主人公・大河。
テーブルの上には、食べたあとのラーメンのカップとみかんの皮。
「ほんとに……もう」
母がため息をつきながら彼に毛布をかけた。
今夜だけは寝かせてあげましょう。この主人公を。




