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夜のコンビニと君のブラックコーヒー  作者: アキラ・ナルセ
第2章 アンバランスな三角関係編

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第17話 桜井さんの闇


「うわっ、またやらかした! 英語、赤点スレスレじゃん!」


 後ろの席から橘の嘆きが響いた。

 答案を片手に頭を抱え、机に突っ伏している。


 俺はそんな雑音に苦笑しながら、自分の答案に視線を戻す。

 点数は悪くない。けれど、満足もしていない。間違えた箇所に赤ペンで印をつけ、ノートに小さくメモしていく。


 ――間違いは、次に繋げるための材料。だた、それだけのこと。


「おーい大河! どうせお前また学年上位なんだろ? ちょっとでいいからその脳みそ分けろって」


「……分けられたら苦労しないだろ」


「ってお前、英語は九十八点って天才か!!」


「努力家と呼んで欲しいもんだな橘くんよ。とはいえ満点じゃないのはやっぱり悔しいよ」


「お前すげーな」


 橘が笑いながらぼやく。


 冬の昼下がり。


 テスト返却が終わったばかりの教室は、どこか緩んだ空気に包まれていた。それはテストの結果どうこうではなく先に控えた冬休みが見えてきたからだろう。



 * * *



 昼休み、廊下の掲示板の前には、人だかりができていた。


 期末テストの上位三十名――学年別にずらりと貼り出された名前の列。


 一位 霞 汐乃 四九八

 二位 深山湊介 四九五

 三位 吉野大河 四九二

 四位 遠藤帆高 四八八

 

 などとざっと三十名が下まで続いている。


「ねえ見た?」「え、今回、深山(みやま)くん入ってるじゃん!」

 そんな声があちこちから聞こえてくる。


 俺もその列の中に混じって、三位に記載された自分の名前を見つめた。


 黒い字で太く記された“吉野大河”の文字。


「俺の名前、今回もあるわ」


 一年前までは、こんなところに自分の名前があるなんて思いもしなかった。


 母さんのため、進学のため――あの日、コンビニでのバイトを始めて、渚先輩に活を入れてもらって勉強に力を入れてきた自分の選択は、間違ってなかったんだと思う。


 けれど同時に、心のどこかで小さな焦りも顔を出す。


(これくらいで満足してたら、東京の大学には届かない)


 そんな言葉が頭の奥で何度も反響する。


「――あっ! 学年三位の吉野くんじゃん!」


 明るい声に顔を上げると、大島さんが笑顔で手を振っていた。その隣には桜井さんもいる。


「おいおい、大島さん。そんな大声で言うと恥ずかしいって」


「えー、いいじゃん! 吉野くんが頑張った証なんだし!」


 からかうように言う大島に、桜井さんが笑う。


「そうだよ。吉野くんはクラス委員もやってるし、バイトもしてて……それでこの順位なんて、すごいと思う」


 素直なその言葉に、胸の奥がくすぐったくなる。


「……あ、ああ。ありがとう、桜井さん」


「えーなにそれ! あたしの時と反応ちがーう!」


 大島さんが唇を尖らせて抗議する。


 ――そんな、他愛もない昼休みの風景。


「俺のことより、二人は期末テストの結果はどうだったんだよ」


 そう問いかけて俺は少し後悔した。

 ふたりの頭の上に“ズーン”という擬音が見えた気がしたからだ。つまり――結果はあまり芳しくなかったらしい。


「追いつめるね〜吉野くん。あたしはもう、ソフトボールにすべてを捧げてるんだ。そう、私はグラウンドの申し子!」


 大島さんが芝居がかった口調で宣言し、周囲が笑いに包まれる。


「とりあえず大島さんはほっとこう。桜井さんはどうだった?」


 そう聞くと、桜井さんは指先で髪をいじりながら、小さな声で答えた。


「わ、私は……理数系がちょっと苦手で。たぶん、学年でいうと五十位くらい……かな」


「へぇ、半分より上じゃん。十分すごいだろ」


 俺がそう言うと、彼女は目を丸くした。


「ほ、ほんとに? そんなふうに言われたの初めてかも。お母さんにも言いにくいし」


「そうなのか? だって、理数系をもう少し補強すれば三十位以内も狙えるってことだし」


「う、うん……! がんばってみる」


 桜井さんの表情が少し明るくなった。


 大島さんが唇を尖らせて言う。


「なんだか私だけ蚊帳の外感〜!」


「そんなことないって」


 俺は笑いながら返す。


「――あ! そうだ!」


 大島さんがぱっと手を叩いた。



「いいこと思いついた! ねえ、冬休みにみんなで集まって勉強会しない?」

「勉強会?」


「そ! みんなでやったら楽しいし、それに吉野くんがいてくれたら勉強に関しては鬼に金棒でしょ!」


「それって俺にメリットあるのか?」


 苦笑しながら返すと、大島さんはすかさず指を差した。


「もー、そういうところが真面目すぎるんだよー! 少しは青春しよ!」


「余計なお世話だけどなあ。でも、たまにはそういうのもありか」


 俺が桜井さんの表情を見ながら言うと、大島は満足げにうなずいた。


「桜井さんはどう? そういうの、いいの?」


「澪っちの家は少し厳しいもんねー」


「うーん……冬休みも家庭教師の人が来たり、お稽古があったりするけど……一日くらいなら大丈夫だと思う」


「よし、決まり! 場所はあたしんち! 日時はまたグループチャット作っとくからそこでするよ」


「わかった。じゃあ橘あたりも誘っとく」


「オッケー! っていっても、まだ冬休みまで日にちあるけどね。楽しみにしてよ!」


 ウキウキしている大島さんに俺はつっこむ。

「……大島さん、ほんとに勉強する気ある?」


「あるある! 見てなさい、今回こそ赤点脱出するから!」


「どうだか」

 俺は苦笑する。


「まぁまぁ、吉野くん。よろしくね」

 桜井さんが言う。


「ああ、こちらこそ」



 * * *



 その夜。家に帰ると、テーブルの上にはテストの束が並べてあった。


「相変わらずすごいじゃない、大河!」


 妹の瑞希が目を輝かせながら言う。


「ほんとほんと、不愛想な兄だけど、“唯一”これだけは妹として誇れるよ」


「お前一言多いぞ」


 母さんが笑いながら顔を上げた。


「このテスト、額縁にでも入れとく?」


「おいおい、大袈裟だなあ」


「でもね、あんたが一年前に急に“東京の大学に行きたい”って言い出してから、人が変わったように勉強し始めて……こうして結果が出てくれて、母さんも嬉しいのよ」


「母さん……」


「バイトし始めてからくらいだよね、お兄ちゃんが変わったの。やっぱりなんかあったの?」

 瑞希が探るように言う。


「さぁな」


 俺は笑ってごまかした。


 ――思い出すのは、夜のコンビニの光と、あのベンチに座っていたあの人。


 あの場所から、俺の今が始まったのかもしれない。



 * * *



 一方、その頃――桜井家。



 デスクの上には、返却されたテストの束。


 その隣で、お母さんが書類から顔を上げ、無言で手招きをした。

 

 彼女の指先が机の上を、一定のリズムで「トントン」と叩いている。


「澪、前回よりは良くなったけど……私の娘としては、もう少しなんとかならないものかしら」


 淡々とした声。


 その一言一言が、私の胸の奥に沈んでいく。


「……ごめんなさい」


 お母さんは軽く息を吐き、眉間に指を当てる。


「あのコンビニに行くことも、私なりに譲歩しているつもりよ。澪も、それに答えてくれないと」


「……はい」


 返す声は細く、かすれた。


 机の上に置かれたコーヒーの湯気が、ゆっくりと揺れる。


 部屋の時計の秒針が、時を刻む音だけが聞こえる。


 お母さんは再び書類に目を落としている。


 私はその姿を見つめながら、唇を噛みしめた。


“「へぇ、半分より上じゃん。十分すごいだろ」”

 吉野くんの言葉が脳裏でこだまする。 


(……どうして、お母さんは褒めてくれないんだろう)


 胸の奥に、小さな痛みが残った。


「ねぇ、お母さん」


「なに?」


「冬休みに私、友達の家で勉強会をするんだけど……一日くらいはいいよね」


 春香は眉をひそめた。


「何言ってるの? 家庭教師の人も予約を入れてるし、お友達と勉強なんてどうせ勉強そっちのけで遊ぶだけに決まってるわ」


「だ、大丈夫。今回の期末テストも学年三位の吉野くんも来てくれて、勉強を教えてくれるって!」


 その名前を聞いた瞬間、春香の目がきつくなった。


「吉野? ああ、コンビニで働いてるっていう……この間のあの彼ね。ずいぶんと生意気な子だったわ。なら、なおさらあなたを行かせるわけにはいかないわ」


「そ、そんな!」

 

 ブブブ――


 そのとき、お母さんのスマートフォンが震えた。


 画面を見た母はため息をついている。


(何かあったのかな)


「……さ、私も仕事が忙しいの。話は終わりよ」


「……うん」


 お母さんは電話をとった。


「私よ。ええ、その件だけど――」


 春香が部屋を出て行ったあと、私はしばらく動けなかった。


 机の上の答案用紙を見つめる。


 赤いペンの跡が、夜の光に滲んで見えた。


(……いい子でいるの、疲れたな)

 

「吉野くん……」


 私は視線を窓の外に向ける。


 そして、眼鏡を外した。


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