第16話 冬の大三角形
――ガシャン。
タイムカードの打刻機が、静かなバックヤードに音を響かせた。
青いエプロンの紐をほどき、ハンガーラックに名札と共に掛ける。
時計の針は二十一時半を少し過ぎたところだった。
「お疲れ様、吉野くん。雨上がりで道が凍り始めてるかもしれないから、気をつけて帰るんだよ」
「はい店長、ありがとうございます。お先に失礼します」
店長に頭を下げ、裏口のドアを開ける。
外はすっかり冬の気配を帯びて、吐く息が白い。街灯の光が雨上がりのアスファルトの上で滲んでいた。
裏口のドアを閉めたちょうどそのとき、向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。
ネイビーのダウンジャケットを羽織り、長い髪をゆるくまとめた女性。夜の街灯に、彼女の耳元の青いピアスが小さく光った。
「や、お疲れ大河。今帰り?」
「渚先輩! はい、今終わりました」
彼女は枝垂渚。
俺と同じこのコンビニで働く大学四年の先輩で、今夜は二十二時からのシフトらしい。その余裕のある笑顔は、寒空の下でもあたたかい。
「どうせ大河のことだから、帰ってからも勉強とかするんでしょ?」
「え、まぁ……。そのつもりですけど」
「よし、じゃあお姉さんがコーヒーの一杯でも奢ってあげよう。まだ時間あるし」
「え? 悪いですよ」
「こういう時は素直に甘えるもんだぞ、大河」
渚先輩は軽く手招きしながら笑った。その仕草に、断る理由がどこかへ消えていく。
昔からそうだ。
先輩は相手を問わず、周りを簡単に自分のペースに巻き込んでいく。その魅力に俺を始め、多くの人間は憧れを抱くのだ。
「……じゃあ、お願いします」
「よろしい」
そうして俺たちは裏口からコンビニの外周を回り、正面へと歩いた。従業員としてではなく「お客」として入るこの店は、いつもより遠く感じる。
~♪
自動ドアが開くと、やはり軽快な入店音が鳴った。
渚先輩は慣れた様子でレジに向かい、スマホのQRコード決済で支払いを済ませると、レジ横のコーヒーマシンの前に立った。
ピッ、とボタンを押す音。
機械が低く唸り、芳ばしい香りが立ちのぼる。
「大河もブラックだったよね?」
「あ、はい」
先輩はカップを出して、手際よくフタを閉じた。俺がまだ新人だった頃、こうやって毎晩のように教わっていたのを思い出す。
「じゃ、外のベンチで飲もっか。先に行ってて」
「はい、ありがとうございます」
カップを受け取って、俺は店の外へ出る。自動ドアが開く音とともに、再び軽やかなBGMが背後で流れた。
――その瞬間。
「おっとすみま――って」
「……え、吉野くん?」
目の前に、見慣れたグレーのスウェットのセットアップの姿があった。
桜井澪――桜井さんが、コンビニの明かりの下で立ち止まっていた。
互いに驚いて、思わず距離を取る。
「桜井さん! こ、こんばんは」
「うん。こんばんは……あの、びっくりしました」
「なんで敬語? 俺もびっくりしたよ」
後ろから渚先輩の声もした。
「あれ? もしかして――澪ちゃん?」
彼女の視線を受けて、桜井さんも少し戸惑いながら答えた。
「あ、はい。えっと……渚さん、ですよね」
「え、私のことも知ってるの?」
「あっ、それ、俺が話しました。桜井さんに、バイトの先輩のこと」
「あー、なるほどね」
渚先輩は納得したように笑みを浮かべる。
「すみません、私……お二人の邪魔しちゃいましたよね」
桜井さんが遠慮がちに会釈して、店に入ろうとする。
けれど渚先輩は、それを止めるように手を伸ばした。
「いいのいいの。――澪ちゃんもブラック好きなんだよね?」
「え、あ、はい……」
「じゃ、はい。これ」
渚先輩は自分の持っていたもう一つのコーヒーを、桜井さんに手渡した。
「え、でも……これ、渚さんの分じゃ」
「いいのいいの。大河と仲良くしてくれてる友達なら、私にとっても大事な友達だよ」
そう言って、渚先輩はにこっと笑った。
「ありがとうございます!」
桜井さんは両手でカップを受け取り、慌てたように頭を下げた。
「さ、二人とも座って飲みな」
渚先輩がそう言って、ベンチを指さす。
「はい」
俺と桜井さんは同時に返事をして、隣り合わせに腰を下ろした。
「澪ちゃん、大河と仲良くしてくれてるんだって?」
渚先輩が俺たちの正面に立ったまま、優しく問いかけた。
「あ、いえ……むしろ私のほうが、いろいろしてもらってる側で」
桜井さんは少し俯きながら、言葉を選ぶように答える。
その姿に渚先輩はふっと笑って、俺の頭に手を伸ばした。そのまま俺の髪の毛をくしゃくしゃにしながら言った。
「うわ!」
「ほんと今の大河はね、真面目なのはいいけど、ちょっと愛想がないっていうか。不器用だからさ」
「ちょ、ちょっとやめてくださいって! もう子どもじゃないですよ!」
俺は慌ててその手を払いのけるが、渚先輩はおかしそうに笑い続ける。
「そうやって顔を真っ赤にしてムキになるあたりが、まだまだ子どもだよね」
「なっ……!」
からかわれるたびに、体の奥がむず痒くなる。だけど不思議と、嫌ではなかった。この人の前だと、どうしても素直になれない。
そんな俺たちのやり取りを、桜井さんは静かに見つめていた。
笑っているようで、どこか寂しげな表情だった――ような気がする。
* * *
一方、コンビニの店内――
BGMが流れる中、レジ奥のスナックコーナーの棚の陰で、店長が腕を組んで唸っている。
眼鏡のレンズが反射して、怪しく光る。
「……ふむ、これは実に興味深いね」
店長の視線の先、ガラス越しの外には――青いベンチに座る三人の姿がある。
時おり笑い声が微かに届いてくる。
そこへ、同じく夜勤に入っていた柿田が近づいてきた。
「あの、店長。そんな所で何してるんですか?」
「しっ……! これをどう思うね柿田くん!?」
「どうって……新発売のこのポテトボールですか?」
「これはもう……三角だよ」
「いえボールなので丸ですけど……」
「いやいや。三角なんだよ柿田君! まさに冬の大三角形!」
「はぁ……」
店長は両手で三角形を作って言う。
ガラスの向こう、月明かりの下で笑う枝垂渚。
その隣で、どこか戸惑いながらも微笑む桜井澪。
そして、二人の間で照れくさそうに肩をすくめる吉野大河。
まるで、三つの点が結ばれて、夜の中に小さな三角形を描いていた。




