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夜のコンビニと君のブラックコーヒー  作者: アキラ・ナルセ
第2章 アンバランスな三角関係編

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第15話 桜もち

 

 キーンコーンカーンコーン――。


 一限目の終了を告げるチャイムが教室に鳴り響いた。


 生徒たちが一斉に椅子を引く音、ノートを閉じる音、雑談が少しずつ戻ってくる。


「ふぁー……」


 俺は大きくあくびをして伸びをする。


 夜更かしのせいで、まぶたの奥が重い。昨夜はバイトの後、軽くテスト対策の勉強をしていたつもりが、気づけば夜更けまで起きてしまっていた。


「ずいぶん眠たそうだね、吉野くん」


 右前の方から、控えめな声。


 俺が顔を上げると、桜井さんが微笑んでいた。彼女のほうから俺に話しかけてくるのは珍しい。不意打ちのような距離の近さに、少しだけ心臓が跳ねて眠気が飛んだ。


「まだ一日始まったばかりだよ?」


「……ああ、まぁな。昨夜ちょっと勉強してたら、寝るのが遅くなってさ」


「そうなんだ。でも病み上がりなんだし、無理しないほうがいいよ」


 桜井さんはそう言って、ノートを閉じながら小さく笑った。窓から差す光が彼女の髪を淡く照らして、どこか柔らかく見える。


「ありがとうな。あ、そういえば桜井さんさ――昨日、うちのコンビニに来てくれてたんだってな」


「え? 吉野くんの姿は見えなかったけど……」


「ああ、あの時、俺トイレ掃除にこもってたんだよ」


「そうだったんだ」

 と、うなずく桜井さん。


「渚先輩――って言ってもわかんないよな。あのあとで、うちの同僚から桜井さんが来たって聞いたんだ」


 その名前を出した瞬間、桜井さんのまつ毛が揺れた。


「渚先輩ってもしかしてあのすごく美人なお姉さんのことかな?」


「あ、そうそう。まぁ、大学の四回生だから“お姉さん”って言ってもいいかもな」


 ここで俺は先輩に聞いた出来事を思い出して笑いながら彼女に続ける。


「そういえば桜井さん、レジの前で小銭をぶちまけたんだって? 結構ドジじゃないか」


 桜井さんがぴくりと肩を跳ねさせた。


「ちょ、ちょっと! そんなことまで聞いちゃったの!? もー……!」


 顔を真っ赤にして抗議してくる姿が、どこか子どもっぽくて可愛らしい。


 膝に両手を乗せて小さく唇を尖らせている。


「まぁまぁ、渚先輩も“すごく可愛いお客さんだった”って言ってたし、良かったじゃないか」


「か、可愛い……? それはちょっと、嬉しいかも……」


 桜井さんは前髪を指先で整えながら、少し俯いた。その頬が、ほんのり赤く染まっているのが見えた。


「レジですごく親切にしてもらったし、お仕事もてきぱきしてたし……すごい人だね。でも私、あのコンビニによく行ってるけど、初めて見たけど……」


「ああ、先輩は今年に入ってから就職活動に専念してて、その間はバイトを休んでたんだ。先月、東京の会社に内定をもらって今週から復帰したばかりなんだよ。だから俺も会うのは久しぶりなんだ」


「そうだったんだ……」


「それに仕事ができるのは当然。

 なんせあの人は、一年前にこの高校に入って、俺がバイトを始めた時の教育係だったんだ。レジの打ち方も接客も、全部一から教えてもらってさ」


「へぇ……。吉野くんにとって、まさに“先輩”なんだね」


 俺は渚先輩のことになったので、つい流れるように続けてしまった。


「ああ。俺も最初は全然ダメでさ、失敗続きで何もできなかった俺に、渚先輩は諦めずに何度も仕事を教えてくれたんだ。

 それに……俺が家庭の事情でちょっと荒れてたときも、真剣に叱ってくれた。あの人がいなかったら、今の俺はここにいなかったかもしれない」


「吉野くん……」


 桜井さんが静かに目を瞬かせる。


 その表情は驚きと、ちょっとの寂しさが混じっているように見えた。


「まぁ、俺がこうして向いてもいないクラス委員やって、バイトも勉強も一応頑張れてるのは、渚先輩のおかげかもしれないな」


 そこまで言って、我に返った。


「あっ、ご、ごめん! なんか語りすぎたな……」


 俺が慌てて頭をかくと、桜井さんは小さく笑った。


「ううん。知らなかっただけで、吉野くんにもそういう時期があったんだなって思うと、なんか意外」


 その笑顔は優しかったけれど、ほんのわずかに影が差していた気がした。


「そ、そうか? まぁ、一年のころは桜井さんとクラスも違ったし、話す機会もなかったもんな」


「そうだね。でも――」


 桜井さんはそこで言葉を止め、窓の外を見た。その瞳に映る光は、どこか遠くを見つめているようで。


「いっけね、もうすぐ休み時間が終わっちまう。俺、トイレ行ってくるな」


「あ、うん」


 俺たちの会話はそこで途切れた。桜井さんが手を振るのを見届けてから、俺は廊下へ出た。

 

「廊下は一段と寒いな」


 冷たい風が窓の隙間から吹き込んでいる。


(もう十一月も後半か……渚先輩と一緒に働けるのも、あと少し)


 そう思うと、胸の奥が締めつけられる感覚。



 * * *



 教室では、次の授業の準備をする音が響いていた。


 ノートを取り出す生徒、プリントをまとめる音。


 私、桜井澪は自分の席に座りながらぼんやりと前髪をいじっていた。


(……吉野くん、あんなふうに話すんだ)


 さっきの彼の顔を思い出す。


 吉野くんは普段は落ち着いていて、大人びて見える人。でも、渚という人のことを語るときの声には、熱があって楽しそうだった。

 まるで、その人のことを心から尊敬しているような――ううん、それよりももっと……。


(“渚先輩”……か)


 あのコンビニで会った女性の姿が脳裏によみがえった。


 黒髪に落ち着いた物腰。柔らかい笑顔。小さく控えめな青いピアス。たしかに、誰が見ても魅力的な人だった。


 でも――なぜだろう。


 私の胸の奥にざわつくような違和感を感じる。


 窓の外を見る。


 普段と変わらない風景のはずなのに、今は少しだけ暗く感じた。


(私、吉野くんのこと、何も知らないんだな……)


 彼がどんな日常を過ごしていて、どんな人と関わっているのか。知らないことが、どうしようもなくもどかしかった。


(……別に、気にすることじゃないのに)

 

 私自身が、この感情に名前をつけることができたのは、もう少しだけあとの話。


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