第13話 ブラックコーヒーが似合うあの人
夕暮れの風が、街のアスファルトを撫でていた。
「ちょっと早くついたな」
俺は自転車をコンビニの横のラックに止め、制服の裾を軽く整える。店の裏手へ回り、従業員用の扉へ向かおうとした。
――そのとき。
視線の先に、見覚えのある姿があった。
コンビニの裏口の横に設置された赤いベンチの上。ひとり腰掛けて、カップのコーヒーを片手で持っている女性。
あの人の名前は枝垂渚。
俺と同じく、このコンビニでアルバイトをしている先輩で大学四年生だ。
就職活動のためにしばらくバイトを休んでいたが、先月の内定式を終えて、今月から卒業までの間だけ復帰するらしい。
風に揺れる彼女の長い黒髪は、夕暮れの明かりを柔らかく反射していた。
そんな渚先輩には“大人”という言葉が似合う。
昔から先輩は、この従業員用の喫煙所の赤いベンチによく座っていた。けれどタバコを吸うわけではなく、決まってカップに入ったコーヒー片手に、スマホを見ていた。
俺の頭にふと、桜井さんの姿がよぎる。
彼女も時々、このコンビニでコーヒーを飲みに来る。
けれど、桜井さんはどこか背伸びをしているように見える――まるで“本当の大人”に手を伸ばしているみたいに。
対して、この人にはそれが自然に溶け込んでいる。
先輩の手の中のコーヒーは、呼吸するように馴染んでいて、その仕草ひとつが十七歳の俺には洗練されて見えるのだ。
同じ“コーヒーを飲む”という行為なのに、どうしてこんなにも違って見えるのだろう――
今日も、その光景はまるで一年前と変わらない。
久しぶりのこの感覚を噛み締めながら俺は彼女に近づいて声をかけた。
「お久しぶりです、渚先輩」
彼女が顔を上げた。
黒い瞳が、俺を映す。
「おぉ、久しぶりだね大河。元気してた?」
その声は、相変わらずでどこか安心する。
風にそよぐ髪の隙間から、彼女の青いピアスがきらりと光った。
「はい。先輩も元気そうでよかったです」
自然と、口元に笑みがこぼれた。
「そういえば渚先輩、内定おめでとうございます」
言うと、彼女は少し目を丸くしてから、ふっと微笑んだ。
「ありがとう、大河。私からも言おうと思ってたけど誰から聞いたの?」
その笑顔には、どこか照れくささと安堵が混じっていた。
「店長から聞きました。東京の出版社に行くんですよね。すごいです!」
「そ。本とか雑誌の記事をつくる側に回るの。昔からずっと、そういう仕事をしてみたかったんだ」
渚先輩はそう言って、手にしたコーヒーをゆっくりと傾けた。
「子どもの頃から、本を読むのも書くのも好きでさ。誰かの言葉に救われるたびに、“今度は自分が誰かの心を救えるような文章を書いてみたい”って思うようになったの」
言葉は穏やかだが、強い決意がにじんでいた。
「渚先輩ならできますよ!」
思わず、強い口調になった。それが素直な気持ちだったからだ。
「そうかな。勢いで受けて、受かって……すごく嬉しいんだけど、東京での初めての一人暮らしだし、ライバルの同期も多いみたいでさ。不安も、実はけっこうあるんだ」
「先輩でも悩んだりするんですね」
「君、私を鉄人かなんかだとでも思ってるの?」
「あ、いや、そんなつもりじゃ……!」
慌てて否定する俺を見て、渚先輩は笑った。
「でもね、大河が言うなら……できるような気がしてきた」
ふっと表情が柔らぐ。
「それに――情けない姿も、後輩には見せたくないしね」
「……やっぱり相変わらずですね」
* * *
俺はドリンクコーナーでペットボトルを並べながら、ちらりとレジのほうを見た。
――渚先輩。
ブランクがあるはずなのに、彼女は相変わらず手際よく仕事をこなしていた。
「あのーこれ送りたいんですけど」
「荷物の発送でございますね。それでしたら――」
落ち着いた声。無駄のない所作。レジ横で手を動かす姿には、どこか凛とした空気が漂っている。
お客さんが去ったあと、彼女は軽く会釈をしてから次のお客様への対応へと移った。髪を耳にかける仕草が妙に自然で、その動作ひとつひとつが洗練されている。
――やっぱり、この人は俺の“憧れ”だ。
学生というよりは、すでに一人の社会人。
俺と比べた時のその差を感じて愕然とする。
手を止めてそんなことを考えていたとき――
「やっぱり枝垂さんがいてくれると、安心感が違うよねー」
「うわっ!」
驚いて振り向くと、やっぱり店長が立っていた。
「どうしていつも急に背後から声をかけるんですか!」
「いやぁ、だって。吉野くんにとっては憧れの先輩だもんねー?」
からかうように言う店長に、思わず声が詰まる。
「ま、まあ……。一年前、このコンビニに入ったばかりで右も左も分からなかった俺を育ててくれた恩人ですから」
「うんうん。青春だねぇ~」
「なんですかそれ」
わざとらしくうなずいた店長は、手に持っていた端末を操作しながら発注業務を再開した。
俺は少し顔をしかめながらも、再び品出しに戻る。
けれど、視線の先――レジの向こうで笑顔を見せる枝垂先輩の姿が、どうしても気になって仕方なかった。




