第12話 新たな花
夜のコンビニでのバイトを終え、家の灯りが見えた瞬間、胸の奥が少しだけほっとする。
「ただいまー」
玄関のドアを開けると、リビングから妹の声が返ってくる。
「おかえり、お兄ちゃん!」
瑞希はソファに座り、スマホを両手で持ちながら何かを見ていた。画面を覗き込む顔がやけに楽しそうだ。
「なんかご機嫌だな」
靴を脱いで洗面所に向かいながら声をかける。蛇口の水音とともに、瑞希の弾んだ声が返ってきた。
「んふふー、実はね、今度の日曜日に澪さんと遊びに行くことになったの!」
「――ぶっ!」
思わず、口に含んでいたうがいの水を盛大に吹き出した。
「な、なにっ!? お前、桜井さんと!?」
咳き込みながら振り向くと、瑞希はにやりと笑ってスマホを掲げる。
「だって、あの日に連絡先を交換したじゃん。ほら、ラインで! まぁ、お兄ちゃんが部屋で寝てて、私たちが雑炊を食べてた時だから知らないだろうけど」
「あ、あの時か……」
まさか本当に繋がっていたとは。喉の痛みも忘れるほどの衝撃だった。
「年上の人と友達になるなんて初めてだから、嬉しいなー。なに着ていこうかなー」
そう言いながら、瑞希はクッションを抱きしめて、まるで恋バナでもしているように頬を染めていた。
「……」
思わず無言になる俺。
* * *
翌日。月曜日の朝。
先週の風邪からようやく全快した俺は、久しぶりにいつもの教室に足を踏み入れた。
窓から差し込む春の陽が黒板に反射して、どこかやわらかい。クラスのざわめきと笑い声――この何気ない音が、ひどく懐かしく感じる。
自分の席に向かう前に、俺は右前の席に座る桜井さんに声をかけた。
「おはよう、桜井さん」
黒縁の眼鏡越しに、彼女が顔を上げる。
「うん、おはよう吉野くん。風邪はもう良くなったみたいだね」
「ああ、おかげさまでな」
俺は席に鞄を置きながら、ふと思い出したように口を開く。
「そういえば――今週末、うちの妹と遊ぶんだって?」
桜井さんは少し驚いたように瞬きをしてから、微笑んだ。
「うん。瑞希ちゃんが誘ってくれて。可愛い妹さんだね」
「……あいつ、家でめっちゃはしゃいでたぞ。『澪さんと友達になった!』って」
「ふふっ、なんか想像できるかも」
その瞬間――
「おはよー! 澪っちー!!!」
甲高い声が教室のざわめきを突き抜けた。
肩の上で切りそろえた明るいライトブラウンの髪が跳ね、制服の赤いリボンの端が風を切る。
赤いヘアピンをつけた女子――大島彩花が、笑顔で突進してきた。
「わっ、大島さん!?」
大島はそのまま彼女に抱きついた。
大島彩花。
クラスのムードメーカーで、桜井さんとはよく一緒にいる明るいタイプの女子だ。クラス委員も本来なら彼女のような人が引き受けるべきなのだろう。
「澪っち~~!! 今日も可愛い~~っ!」
「ちょ、ちょっと大島さん!? 朝から元気すぎるってば!」
「“大島さん”とか他人行儀すぎっ! 彩花でいいってば! いつも言ってるのに!」
勢いのまま桜井さんの肩に顔を埋めながら、彼女はちらっとこっちを見た。
「ついでに~、吉野くんもおはよー!」
「ついでかよ!」
思わずツッコむ俺に、大島が俺にいわゆるジト目を向けた。
「そういえばさ~、吉野くんって最近よく澪っちと話してるよねぇ?」
「ま、まぁ……そうかもな」
桜井さんの肩に抱きついたまま、距離わずか一メートル。その視線はまるで我が子に近づく敵に向けるように鋭くあった。もちろん比喩だが。
「……さては、あたしから澪っちを奪うつもりだなー!」
「はぁ?」
大島さんがさらに桜井さんの肩を抱き寄せる。
桜井さんは困ったように笑って、「もう、大島さんってば」と小声で返す。
「もー、澪っちはあたしの癒しなんだから~!」
その姿はどう見ても漫才。
周囲のクラスメイトが笑いをこらえているのが分かった。
「はいはい、末永く仲良くな」
俺がため息まじりにそう言うと、大島はふくれっ面で振り返った。
「ちょっと吉野くん、それどういう意味~?」
「深い意味はないって。さ、もうすぐホームルームだぞ席につきなさい」
「クラス委員ぶんな!」
「クラス委員だっての……」
「あ、そうだっけ」
俺達のやりとりを見て、桜井さんがふっと笑顔になるのが見えた。
「ふたりとも、面白い」
教室に明るい陽が差し込む。
――その笑顔は、前よりもずっと自然で。
昼の桜井さんにも、少しずつ“夜の自由な顔”が戻ってきているように思えた。俺も大島さんも顔を見合わせて笑い合う。
キーンコーンカーンコーン
チャイムが鳴り、各自が席へと戻る。
俺も自分の机に腰を下ろす。
その瞬間――スマホが小さく震えた。
「……誰だろ?」
画面を見ると、メッセージアプリの通知。
表示された名前に、思わず目を細める。
――枝垂渚。
トーク画面を開くと、たった一行のメッセージ。
『明日から復帰させてもらうことになったよ。またよろしくね、大河』
「渚先輩……」
夜のコンビニに、また新しい風が吹こうとしていた――。




