その⑤ 桐崎杏奈のホワイトデー
放課後の空気は、どこか軽い。
それも今日は、特別に。
教室から漏れてくる笑い声も、廊下を走る足音も、昼間より少しだけ柔らかく感じる。
今日はホワイトデー。
だからか、校舎の中はいつもより落ち着かない。
――その喧騒から少し離れたくて、私は中庭にいた。
私は桐崎杏奈。生徒会執行部の書記兼、吹奏楽部のトランペット担当。今日は生徒会執行部の活動がないので、私はコンクールに向けての個別練習をしている最中。
トランペットを構え、楽譜に目を落とす。
(……あれ)
息を吸って、音を出す。
ぱぁ、と伸びるはずの音が、途中でわずかに揺れた。
「……っ」
もう一度。
今度は意識して、腹から息を送る。
けれど、思ったように鳴らない。
(今日はなんだか、音がうまく出ないな)
そういうわけか集中できていない。
今日は、朝からずっとそんな感じだった。
バレンタインのお返しを渡す、渡さない。
もらった、もらってない。
そんな話題が、校内のあちこちで飛び交っていて。
この高校ではバレンタインの時と同様に、市販品に限り、校内に持ち込んでよいという通達となっている。
「……私は関係ない」
そう思えば思うほど、余計なことが頭をよぎる。
私は小さく息を吐き、トランペットを下ろした。
そのとき――
砂利を踏む、足音。
中庭に誰かが入ってくる気配。
「ここにいたか桐崎!」
私はそちらへ視線を向けた。
そこにいたのは――
生徒会副会長こと、吉野くんだった。
「吉野、くん」
「桐崎んとこの部長に聞いてさ。このあたりじゃないかって。やっと見つけたぜ。間の抜けた音だったけど」
相変わらず一言多い。
……でも、否定はできない。
「悪かったわね」
私はトランペットをそっと置き、腕を組んだ。
彼は背中にしょっていたリュックを降ろすと、その中からひとつの包みを取り出す。
「ほい」
「え? なに、これ」
「なにって。桐崎にはバレンタインの日にもらっただろ。それのお返し」
「べつに、良かったのに」
「そういうわけにはいかねぇよ。こちとら、チェックリストを作ってまでしっかりやってるんだからな」
彼はA4のノートを取り出し、私の名前が書かれた欄にチェックを入れた。
(し、仕事か!)
「へ、変なところで律儀ね。吉野くんって」
思わず笑ってしまった。
なんとなく、肩の力が抜けた気がする。
「そうか? コンビニのバイトだと、こういうのばっかりだからな。ほら、トイレの清掃当番とか、レジの引き継ぎチェックリストとかさ」
「へぇー、そうなんだ」
「で、お前、こんなところで練習してたのか?」
「ええ。コンクールまであと少しだから。だから、生徒会執行部の活動は、ちょっと顔を出す回数が減るかな」
「兼任は大変だな」
彼はそう言いながら、興味津々といった様子で、私のトランペットを覗き込んだ。
「な、なに? 興味あるわけ?」
「まぁな。普段、こんな近くで見るもんじゃないからなー。すげー」
(……こういうところは、普通の男子なんだな)
「なぁ、桐崎。ちょっと吹いてみてくれよ」
「えぇ?」
「せっかくだしさ」
「まぁ、いいけど……。でも今日は、あんまり調子よくないんだけどね」
私はトランペットを、もう一度持ち上げた。
(あれ?)
軽い。
「――っ」
「どうした?」
「なんでもない。……じゃあ、少しだけね」
私は深く息を吸って、マウスピースに唇を当てた。
すぅ――
はぁ――
指を構え、音を出す。
しばらく演奏を続けた時。
――ぷぁ。
……やっぱり、外れた。
「……やっぱ調子悪いかな」
自分でもわかる。芯を捉えきれていない、逃げた音。
「いや」
吉野くんは、意外にもすぐ否定した。
「悪くないだろ」
「え?」
「少なくとも俺からしたら、十分すごい。かっこいいな桐崎は」
(なに、それ)
私は楽器を下ろして、彼を見る。
「そんなの、みんなにもあんま言われたことないんだけど」
「まぁ、そりゃ俺は専門家じゃないしな。でも――」
彼は少し考えるように顎に手を当ててから、続けた。
「必死に吹いてる音は、わかる」
……ずるい。
そんなこと、言われたら。
私は視線を逸らして、トランペットを抱え直した。なんだかわからないけど、お腹の辺りに力が入った気がする。
「……もう一回、吹くから」
「おう」
今度こそ。
私はもう一度、息を整えた。
胸の奥に空気をためて、ゆっくりと、逃がさないように。
――――。
今度は、音がまっすぐに伸びた。
中庭の空気を切り裂くように、でも強すぎず、柔らかく。
「……」
吉野くんは、何も言わない。
ただ、黙って聞いている。
それが、逆に集中できた。
私はそのまま、短いフレーズを続けた。
いつもなら途中で気になってしまう細かいズレも、今日は気にならない。
音が、流れる。
自分でも驚くほど、指と息が噛み合っていく。
最後の音をそっと収めると、余韻が中庭に残った。
「……いい音だったな」
その一言だけ。
でも、それで十分だった。
「おっと、いけね! じゃ、おれそろそろ次いかないと!」
「わかった。あ、これ、ありがとね」
私はトランペットを下ろして、照れ隠しみたいに視線を逸らした。
「いいって。またな」
「あ、うん」
彼は軽く手を振って、そのまま中庭を出ていった。
ひとりになる。
さっきまで確かにそこにあった気配が、すっと消える。
……心臓の音が、やけにうるさい。
(なに、これ)
私は胸のあたりに違和感を覚えて、無意識に制服を握った。
音がうまく出たから?
褒められたから?
違う。
そうじゃない。
(私……)
ただ「聞いてもらえている」ことが嬉しかったんだ。
アドバイスでも評価でもなく、ただ、彼がそこにいて、私の音を聞いてくれていたこと。
それだけで、息が整ったんだ。
音が伸びたんだ。
……ああ。
「……そっか」
私は小さく、独り言みたいにつぶやいた。
「私……」
続きを言葉にするのは、まだ少し怖くて。
トランペットを抱えたまま、私はそっと息を吐いた。
中庭には、もう、春の匂いがしている。




