その④ 梅宮さんのホワイトデー
「ほ、本当に大丈夫でしょうか、澪お嬢様……」
緊張した表情で私に問いかけてくるのは、母専属の秘書――松野さんだ。
「大丈夫です! いつも通りにいっちゃいましょう!」
ここは、私の家の二階。
時刻は夜の二十二時を少し過ぎたころだった。
階段の下にはキッチンが見えていて、そこに梅宮さんがいる。
梅宮さんは一日の仕事を終えると、ひとりでカフェインレスコーヒーや紅茶を楽しむルーティンをもっている。
それは、うちの家族みんなの共通認識で、基本的に誰も立ち入らない時間だ。
「し、しかし……迷惑に思われたりしないだろうか……」
「また弱気になってるんですか……」
松野さんは、父と母からもお墨付きをもらっている仕事人だ。
取引先との交渉、打ち合わせ、折衝――そういった場面では、右に出る人はいない。
けれど、唯一の欠点があるとすれば――
「自分でも、情けないと思っているよ」
恋愛に関してのスキルが、ほぼゼロに等しいということ。
でも、それは私も、そんなに変わらない。
私だってスキルはゼロに等しい。
だからこそ、向こう見ずに大河くんに突っ込んでしまったのだ。
……でも!
これは今は置いといて!
「今日は“ホワイトデー”です」
私は胸を張る。
「理由としては、十分すぎるくらいです。いつもの感謝の気持ちを伝える日、バレンタインのお礼をするくらいの気持ちでいきましょ!」
「だが……」
「それに」
私は、少しだけ声を落とした。
「梅宮さん、きっと待ってますよ」
「……」
松野さんは、ぴくりと肩を揺らした。
「……そういうことを簡単に言うところ、誰かに重なりますね」
「それは、どうでしょう」
自分でも、少し不思議だった。
こんなふうに、人の背中を押すなんて。
ほんの半年前までの私だったら、考えられない。
(それは、きっと彼が私と向き合ってくれたから)
「行きましょう」
私は、そっと松野さんの背中を押す。
「大丈夫です。失敗しても、死にません」
松野さんは観念したように息を吐いた。
「……わかった。行こう」
そう言って、彼はゆっくりと、階段を下りていく。
私は二階の手すりの影に身を引いた。
彼が階段を下りきったところで、梅宮さんがふと顔を上げた。
「お疲れ様です。梅宮さん」
「あれ。松野さん? お疲れさまです。もうお休みかと思っていました」
梅宮さんはそう言って、カップを持ったまま首を傾げる。
「何か、ありましたか?」
松野さんは一瞬だけ言葉に詰まったが、続ける。
「いえ。ただ……少し、お話を」
「私と?」
「はい。ご迷惑でしたら――」
梅宮さんは松野さんが手にしているひとつの包みを見てから、視線を松野さんに戻して言った。
「そんなことはありませんよ」
梅宮さんは、柔らかく笑った。
「ちょうど、一人では飲みきれないところでした。カフェインレスコーヒーですが、いかがですか?」
「……では、いただきます」
そのあと、私はあの部屋に戻ってしまったから、ふたりがどうなったのかは、正直わからない。
でも――たぶん、大丈夫。
うん。
きっと、大丈夫。




