その③ 吉野瑞希のホワイトデー
ガラガラ。
洗面所のドア越しに、うがいをする音が聞こえる。
むむ……帰ってきたな!
私はソファに寝転びながら、スマホをいじるふりをして、その音に耳を澄ませていた。
(今日は、ホワイトデー)
つまり――
あの日、バレンタインデーに大量のチョコをもらっていた兄が、
“ちゃんと大人として対応できたかどうか”が問われる日だ。
よし、今だ!
「ねー、お兄ちゃん」
洗面所のほうへ、少し大きめの声で呼びかける。
「なんだー?」
間延びした返事。
あ、これはもう一回うがいする流れだな。
ガラガラガラ……。
私は体を起こし、洗面所の前まで移動する。
兄は鏡の前で手を洗っている。コンビニのアルバイトから帰ったあとのルーティーンなんだよね。
「ねえねえ」
「ん?」
ようやく、ちゃんとした返事。
私は腕を組んで聞いた。
「今日さ。ホワイトデーだけど」
「うん」
「……ちゃんと、みんなにお返しできた?」
兄は一瞬だけ、目を泳がせた。
ほんの一瞬。
でも、私は見逃さない。
「……あたりまえだろ? 苦労して買い集めた返礼品だしな」
「返礼品って……」
「だけど、個別に返さなきゃいけない人が多くて、正直大変だった」
「ふーん、ちゃんと返せたみたいだね! じゃあ、これで! お兄ちゃんの初めてのホワイトデーは無事、終わったんだ?」
「……まぁな」
この間。
この、微妙な溜め。
(あー……)
私は、思わずにやっとしてしまう。
「なにその言い方。なんか怪しくない?」
「怪しくないって」
兄は視線を逸らしながら、タオルで口元を拭いた。
「ほら、学校の子たちにも、後輩にも。ちゃんと返した」
「ふーん」
私は一歩、距離を詰める。
「じゃあさ」
「なに」
「一番大事な人には?」
「ゲホッ!」
お兄ちゃんは派手にせき込むと、手が、ぴたりと止まった。
……わかりやすい。
「……それ、どういう意味だよ」
「どういう意味だと思う?」
私はにこにこしながら、首を傾げる。
「だってさ。バレンタインのとき、お兄ちゃん――
“これはちゃんと考えないとダメなやつだ”って言ってたじゃん」
「……」
「それ、ちゃんと考えた?
……ちゃんと、お返しした?」
少しだけ声を低くして、念を押す。
沈黙。
兄は洗面台の縁に手をついたまま、目を泳がせていた。
――きた。
そして。
「あぁー!! もういいや! 瑞希、お前には話す!」
兄は、なにかを振り切るように声を上げた。
よし。
(かかった)
「実はな……」
兄は、少しだけ言いづらそうに視線を逸らしながら、続ける。
「桜井さんとは、次の休みに……その……一緒に出掛けることになった」
一拍。
脳内で、言葉を反芻する。
「……え」
もう一拍。
「ええ!?
そ、そ、そ、それってまさか……
で、で、で、デート――!?」
私は思わず口元に手を当てた。
いや、抑えないと。
今にも叫びそう。
その瞬間。
「おい、待て! 違うからな!」
兄が、慌てて言葉を被せてきた。
「俺が、桜井さんに渡すホワイトデーのお返しで困ってるって話になって……
桜井さんが見かねて、“時間をくれればいい”って提案してくれただけだ!」
「…………」
…………。
「はわー……」
漏れた。
完全に、素。
(なにそれ……)
(澪さん、可愛すぎでは……?)
胸の奥が、きゅん、どころじゃない。
きゅん、きゅん、きゅん! って鳴ってる。
私はその場で、ぎゅっと拳を握った。
(尊い……)
(尊すぎる……)
ああもう。
なんなの、この二人。
でも――
すとん、と腑に落ちた。
(なるほどね)
ここ数日。
兄がやけに落ち着きがなくて、
夜もぼーっとしてて、
コーヒー飲みながらため息ついてた理由。
全部。
(澪さんとの“それ”が決まったからだったんだ)
私は、思わずにやけそうになるのを必死にこらえながら、
できるだけ平静を装って言った。
「……ふーん」
「な、なんだよその反応」
「べつにー?」
でも、心の中では拍手喝采だった。
(お兄ちゃん)
(それ、どう考えても“デート”だから!!)
私は、心の中でしっかりとガッツポーズを決めた。
「ま、それはそれとして――はい、瑞希」
「……はえ?」
悶絶の余韻に浸っていた私は、そこでようやく我に返った。
お兄ちゃんが、なにかを差し出している。
「どうしたの、これ?」
「どうしたのって……今日はホワイトデーだろ。お前にも、もらったしな」
サックスブルーの巾着。
結ばれているのは、ビビッドなイエローのリボン。
――あ。
そっか。
私も、もらえる側だった。
「へへー! ありがと、お兄ちゃん!」
「……どういたしまして」
ちょっと照れたように、そっぽを向く。
昔からそうだ。
“あの日”から、ぶっきらぼうな言い方ばっかりで、損ばかりしてきた人。
自分のことより人のことを考えすぎて、
勝手に疲れて、
勝手にひとりの世界に閉じこもってた。
でも――
最近は、ちょっと違う。
(ちゃんと、人間らしくなった)
そんなことを考えながら、巾着を手に取った、そのとき。
「あっ!」
「ど、どうした!?」
私の声に、兄がびくっと肩を揺らす。
私は、包みの隅を指さした。
「こんなところに、割引シールが!!」
「え!?
そ、そんな……店長に言って、ちゃんと外してもらったはず――」
そこまで言って。
兄は、はっとして口を押さえた。
(かかった!)
「なーんて。うそうそ」
「……瑞希ぃ……!」
兄は、心底疲れた顔で私を睨む。
「あはは! お兄ちゃん、詰めが甘いねー!」
「お前なぁ……」
でも、その声には怒気はなかった。
こういう、どうでもいいやりとりができるだけで、
毎日が少しだけ楽しくなる。
「あ、言っとくけどさ」
私は玄関へ向かいながら、振り返る。
「そんなんじゃ、澪さんに愛想尽かされちゃうよ?」
「だから!
桜井さんとは――!」
兄の必死な言い訳を背中で聞きながら、私は逃げる。
くすくす笑いながら。
(なにを心配してるのか知らないけど、大丈夫だよ、お兄ちゃん。その心配、たぶん一番いらないやつだから)
――こうして。
お兄ちゃんと澪さんが、駅前のショッピングモールへデートをしにいく日は、もうすぐそこまで来ている。
それは、
また、別のお話。
※ このお話の時系列は、第110話 「しっかり、青春、楽しめよ」の前日譚です。




