その② 霞 汐乃のホワイトデー
僕が生徒会室の扉を開けると、そこに汐乃――いや、生徒会長がいた。
彼女は書類から目を上げ、こちらを見る。
「稲葉か。早いな」
「会長も」
僕は稲葉澄仁。
生徒会執行部の会計を務めている。
僕と生徒会長――霞汐乃は幼なじみだ。家も近く、昔から互いの性格や癖、思考の傾向まで把握している関係にある。
とはいえ、距離は常に一定だ。
踏み込みすぎず、甘えすぎず。
僕たちは互いをリスペクトする友人同士であり、その共通認識は暗黙の了解として成立している。
僕は彼女の机まで歩み寄り、ひとつの紙袋を置いた。
「……これは?」
彼女はわずかに首を傾げ、僕を見上げる。
僕は右手の人差し指で眼鏡の位置を整えた。
「今日はホワイトデーです」
「不要だと言ったはずだが」
「それは僕も同じです。バレンタインはいらないと、言いましたから」
「……ふ」
彼女は小さく息を漏らし、肩の力を抜いた。
「たしかに。では、頂こう」
そう言ってから、改めて紙袋に視線を落とす。
そして、何かに気づいたように目を細めた。
「この紙袋……もしかして、お前の……?」
「はい」
僕の実家は砂糖菓子を扱う店を営んでいる。
創業から二百七十年。徳川の時代から脈々と続く老舗。今となっては、テレビや新聞の取材が入ることも、珍しくない。
会長は僕の返答を聞いた瞬間、普段は冷静な黒い瞳を、わずかに――いや、はっきりと輝かせた。
……昔から変わらない。
彼女は、筋金入りの甘党なのだ。
それも、“大”がつくほどに。
彼女は、その包みを開けた。
「……おぉ」
個包装された透明の袋の中には、パステルカラーの砂糖菓子がぎっしりと詰め込まれている。
動物、植物、星形――ひとつひとつが異なる意匠で、どれも丁寧に作られているのがひと目でわかった。
「こんなに……。いいのか?」
「ええ」
「お前のことだから、私に“甘いものだけ”は渡さないと思っていたが」
僕は小さく、ひとつ息を吐いた。
「当然です。普段から会長の希望どおりに渡していたら、身体を壊しますから。今回は特別です」
彼女はその言葉を聞いて、めずらしく一瞬、黙った。
そして、ふっと視線を落としてから――静かに言う。
「澄仁」
「はい」
「ありがとう」
「いいえ」
僕は、彼女が生徒会長になると決め、そして僕を執行部のメンバーに迎えたいと言ったとき、ひとつだけ決めたことがある。
それは――
彼女に、必要以上に近づかないこと。
理由は単純だ。
本校の生徒会執行部は、会長を除き、すべて会長の指名によって選出される。
生徒会執行部に名を連ねるということは、この学校において名誉なことであり、内申点にも大きく影響する。
だからこそ。
もし、僕と会長が旧知の仲であるという事実が、妙な形で周囲に伝われば――
生徒の間に、余計な憶測や噂が生まれる可能性は十分にあった。
だが、会長は僕に言ったのだ。
幼なじみだからではない。
純粋に、能力を評価して会計の席を任せたい。
その言葉を、僕は信じた。
だからこそ、僕は彼女に提案した。
『汐乃。君がその役目を終えるその日まで、僕たちは“幼なじみ”という関係を封印しよう』
合理性を何より重んじる彼女が、その提案を拒むはずがなかった。
『いいだろう、澄仁――いや、稲葉』
あれ以来、久しぶりに呼ばれた彼女の声による僕の名前。
やはり、不思議と耳に馴染む。
僕は一拍置いてから、口を開いた。
「会長。ひとつ、聞いてもよろしいですか」
「なんだ」
「吉野くんからのお返しは、ありましたか?」
「……面白いことを聞くな、お前は」
一瞬の沈黙。
即断即決を常とする彼女にしては、珍しい間だった。
「いえ。少し、気になりまして」
「ああ、もらった」
彼女は引き出しから、青い巾着包みを取り出し、机の上に置いた。
「大河は今日はアルバイトだそうだ。さっき、これを渡して出ていったよ」
「そうですか」
「それで? どうしたんだ」
「会長」
傾き始めた西日が、生徒会室を橙色に染めていく。
「吉野くんのこと……好きですか?」
「稲葉……」
僕は彼女を見ていた。
そして彼女は、ほんの少しだけ間を置いて、問い返す。
「澄仁。お前には、そう見えるか?」
「ええ……幼なじみとしての勘ですが」
「そうか……」
彼女は椅子にもたれかかり、視線を天井へと逃がした。
「お前がそう言うのなら、きっとそうなのだろうな」
そう言って、僕にふっと微笑みかける。
「……そうですか」
「止めないのだな」
「止まりませんから」
「吉野大河。彼は面白い。実に」
一拍。
「無論、私のこの気持ちが実ることはないと、わかってはいるがな」
「……汐乃」
彼女は、少なくとも僕の知る限り、誰よりも頭がいい。
「だが、私にとっては、それが心地よいのだろう」
そう言って立ち上がり、窓の外に視線を向ける。
「これまでの私の人生は、ほとんどが思い通りに進んできた。
だが、大河はそうもいかなそうだ。だから、それがいいのだろう」
届かないからこそ、追い求めてしまう。
なんとも彼女らしくない、非合理的な感情。
――だが。
「いいと思いますよ、会長」
「そう思うか、稲葉」
「はい。今のあなたは……楽しそうに見えますから」
「楽しい、か……」
僕は、思わず目を疑った。
彼女が――汐乃が、こんなにも自然な笑顔を浮かべるなんて。
今まで、一度も見たことがない。
これが、恋というものの力なのだろう。
「そうだな。お前が言うのなら、きっとそうなのだろう。私は今、楽しいという感覚を味わっている最中なのかもしれないな」
僕が彼女のそばにいられるのは、あと一年。
この先、彼女の言う「楽しい」という感情が、どんな形に変わろうとも――
少なくとも、この一年間だけは、僕は彼女のそばにいよう。
生徒会の会計として、
そして――
彼女の幼なじみとして。




