第11話 またあの場所で
「できた!」
火を止めると澪さんがそう言ったの。
お鍋の中では、卵がとろりと金色に光ってて、ふわーっと湯気が立ってる。
「じゃあ瑞希ちゃん、吉野くんに――」
「ダメですよ! 澪さんが作ってくれたんだから、澪さんが持って行ってあげてください!」
「え、でも……」
「いいんです。お兄ちゃんはそのほうが元気になると思うし! 戻ってきたら私と一緒に食べましょ!」
私の言葉に、桜井さんは少し戸惑いながらも笑顔でうなずいてくれた。
「……わかった。じゃあ、そうするね」
澪さんはお盆に雑炊とお水を乗せて、廊下を静かに歩いてく。
その背中を見送りながら、私は静かにガッツポーズを取った。
「グッジョブ、私!」
誰もいないキッチンで、両手を腰に当ててひとり満足げにうなずいた。
「これでお兄ちゃん、少しは元気になるでしょ」
と小声でつぶやいた。
それは普段、女っけのない兄へ向けた、私からのささやかな気遣いなのであった。
* * *
――コンコン。
軽いノックの音で目を開けると、扉の向こうから声がした。
「吉野くん、入ってもいい?」
「ああ。どうぞ」
扉が静かに開く。
お盆を持った桜井さんが立っていた。白い湯気が立ちのぼり、ふんわりと出汁の香りが広がる。
「どう、吉野くん。食べられそう?」
「ああ、むしろ食べたい! さっきからここまで、いい香りがしててさ」
彼女は微笑み、ベッドの前の机にお盆を置く。
俺は上体を起こして布団から抜け出し、机の前に座った。桜井さんも、少し離れた場所にそっと腰を下ろす。
湯気の向こうに見える桜井さんの顔は、どこか柔らかい。
目の前の器には、黄金色の卵がとじられた雑炊。ほのかな鶏の旨味と、刻まれた葱の香り。
見ているだけで胃が刺激される。
「おお……! うまそう!」
「ふふ、そんなに?」
「いただきます!」
ひと口すくって口に運ぶ。
とろみのある出汁の塩加減がちょうどよく、卵の甘みと一緒に喉を通っていく。
「……うまい!」
「ほんと?」
心配そうに見守る桜井さんに、俺は笑って答えた。
「めちゃくちゃうまい! 桜井さん、料理の才能あるんだな!」
「おおげさだよ! 普段は家政婦さんがいるから、いつもしてるわけじゃないし」
「いや、大したもんだよ。誇っていいぞ。俺が保証する!」
「もー。でもありがとう」
桜井さんは少し照れたように笑った。
「ふう、ごちそうさまでした」
やがて食べ終えた俺は、息を吐く。
その後、一勢いよく水を飲み干した。
桜井さんは空になった器を見て目を丸くした。
「すごい食欲だね。けっこう量あったのに」
「まぁな。これで来週からは間違いなく学校行けるよ。ありがとう、桜井さん」
「そっか。良かった」
彼女はお盆を持ち上げて立ち上がる。
「じゃあ私、向こうで瑞希ちゃんと一緒に食べてから帰るね。吉野くんはゆっくり休んでね」
「ああ、わかったよ」
ドアの前まで歩いた桜井さんが、ふと立ち止まった。
「?」
俺が食べている最中もなにか言いたげだったが、ついに話すことを決めたみたいだった。
「……私ね、あのあとお母さんと話し合ったんだ」
「そうか。上手く収まったか?」
「うーん、正直ちょっと喧嘩みたいになっちゃった」
「まじかよ」
「でもね、私がはっきり反対したのは初めてだったの。だから、お母さんも戸惑ってたと思う。でも――ちゃんと話せてよかった」
その表情は晴れやかだった。
「桜井さんがすっきりしてるなら、それでいいさ」
「うん。すっきりはしたかな。それにね――」
彼女は小さく笑って言った。
「どうしても行きたいなら、夜にコンビニへ行くのも良いって言ってくれたよ」
「え、本当かよ」
「うん。秘書さんの送迎付きで、だけどね」
「な、なるほど。さすがは金持ちだな」
「あはは……でも、これからもたまに行くと思うよ」
「そうか。楽しみにしてるな」
「うん!」
彼女が部屋を出ていくと、やがてリビングの方からかすかに声が聞こえてきた。
「これ、すごくおいしい! 桜井さん、料理上手なんですね!」
「ふふ、そんなことないよ。瑞希ちゃんが手伝ってくれたおかげだよ」
箸の音と笑い声が混じり合って、柔らかく部屋の壁を越えてくる。その音を聞いているだけで、不思議と胸の奥が温かくなった。
俺は布団に背を預けながら、ゆっくりと目を閉じた。
その日は、よく眠れたと今でも良く記憶している。
* * *
翌日の夜。
「もう復帰して大丈夫なの? もう何日か休んでも良かったのに」
店長が心配そうに言う。
「いえ、もうこの通り、全快しました!」
「そうかい? それならいいけどね」
時計の針が二十一時を回ったころ。
~♪
あの軽快な入店BGMが鳴る。
「いらっしゃいませ」
俺が顔を上げると、そこに立っていたのは――あの姿だった。
グレーのスウェット。淡いピンクのジャケット。髪は下ろしていて、前髪が少しだけ目にかかっている。
俺は思わず、口元が緩むのを感じた。
彼女は、眼鏡をかけていないものの店内の物の配置はしっかりと覚えているようで、白と黒のパッケージの消しゴムひとつと、ブラックコーヒーを手にしてレジへ向かう。
「いらっしゃいませ、いつもありがとうございます」
俺はいつもの言葉で迎えた。
「いえ、こちらこそ」
彼女は微笑みながら、レジカウンターに小銭を置いた。
――その場での会話は、それだけだった。
でも、それで十分だった。
また、いつもの夜が戻ってきたのだから。




