その① 深山陽菜のホワイトデー
「あーー! 吉野せんぱーい!」
床暖房の効いた足元が心地よいリビングに、妹の声が響いた。
それは、僕がオートロックを解除して帰宅した、まさにその瞬間だった。
「ど、どうしたの陽菜ちゃん!?」
僕は靴を揃えることも忘れて、慌てて玄関を上がる。
リビングのソファー。
白いクッションに、妹は顔をうずめていた。
近づくと、彼女はゆっくりと顔を上げる。
「……なんだ。湊ちゃんか……」
妹の陽菜ちゃんは昔から、僕のことをそう呼ぶ。
「今、吉野って言ってなかった? 彼と、なにかあったの?」
僕の問いかけに、陽菜ちゃんはクッションを抱きしめたまま口を尖らせる。
「あったもなにもさ。今日はホワイトデーじゃん?」
「……うん。そうだね」
「吉野先輩から、お返しはもらったんだけど……」
そこで、言葉が途切れた。
彼女は僕の一つ下で、同じ高校に通っている。
しかも――あろうことか。
僕の可愛い妹、深山陽菜が、あろうことか吉野大河に好意を寄せていることが、最近になって発覚したのだ。
最近でこそ、多少は彼とも打ち解けてきたが、最初はもちろん止めた。
――あの男の、どこがいいのか。
僕と同等に成績が優秀。
あの霞汐乃さんに指名され、生徒会副会長に就任。
勉学だけでなく、アルバイトもしていて社会性もある。
昔はともかく、同級生、下級生、そして教師からの評判も良い。
……僕ほどではないが、ルックスも、まぁまぁ。
……。
とにかく!
陽菜ちゃんには、もっといい人が現れるはずだ!
そう思って必死に止めた。
だが、それも虚しく――陽菜ちゃんは、吉野大河にバレンタインチョコレートを渡すことになった。
ああ、神よ。
「で……大河くんからの返事は……?」
恐る恐るそう聞くと、陽菜ちゃんが顔を背ける。
「……湊ちゃんには、言いたくない……」
「ええ!?」
その瞬間。
彼女の膝の上から、一枚の手紙がはらりと床に落ちた。
僕は反射的に、それを拾い上げる。
「あ、ちょっと!」
差出人は、大河くんからのものだった。
筆跡を見ただけでもそれとわかるし、なにより名前がきちんと書いてある。
僕は、思わず声に出して読み上げてしまった。
『陽菜ちゃんへ
このあいだは、バレンタインのチョコレートをありがとう。
高そうで珍しいもので驚きました。そして、ちゃんと全部おいしく食べました。
手紙も、何度も読みました。
まっすぐな気持ちを伝えてくれて、本当にありがとう。
ちゃんと考えて、正直に答えます。
今の俺は、誰かと付き合うということに、まだ向き合える状態じゃありません。
陽菜ちゃんの気持ちが軽いものじゃないことも、ちゃんと伝わっているから、中途半端な返事はしません。
だから、お付き合いはできません。
でも、陽菜ちゃんのことを、後輩として、ひとりの大事な人として、これからも普通に話したいし、仲良くしていきたいと思っています。
元気で、素直で、まっすぐなところは、すごくいいところだと思う。
それだけは、嘘じゃない。
もし、これから学校で顔を合わせたとき、
気まずくなったり、避けたりしなくていい。
俺は今まで通りでいたいです。
返事が遅くなってごめん。
チョコレート、本当にありがとう。
吉野大河』
読み上げている途中から、陽菜ちゃんは再びクッションに顔をうずめていった。
最後の一文を読み終えたとき、僕の頭には一気に血がのぼっていた。
「吉野大河……! やっぱり君は許すまじ!!」
そう叫び、僕が勢いよく振り返って外へ出ていこうとした、その瞬間――
バスン!
「あいたっ!」
後頭部に、白いクッションが直撃した。
「なにするのさ、陽菜ちゃん! 危ないよ!」
振り返ると、彼女は涙声を必死に抑えながら言った。
「なーにが“許すまじ”よ、湊ちゃん……」
「……」
「確かに、すっごく悲しいし、悔しいよ? でも……しょうがないじゃん」
クッションに顔を押しつけたまま、くぐもった声が続く。
「先輩が、ちゃんと考えて、そう言ってくれたんだから……」
……なんてことだ。
この短期間で、兄妹そろって失恋を経験するとは。
僕は何も言えず、ただその場に立ち尽くしていた。
「それに――」
「え?」
「まだ、終わってない!」
「ど、どういうこと、陽菜ちゃん?」
彼女は勢いよく顔を上げた。
「まだ一回しかフラれてないってこと!」
「ど、どういう……?」
「手紙をちゃんと見てよ!」
陽菜ちゃんはクッションを抱えたまま、早口でまくし立てる。
「『今の俺は、誰かと付き合うということに、まだ向き合える状態じゃありません』って書いてあるでしょ?」
「……ああ」
「“今は”ってことはさ、そういう状態になる可能性があるってことじゃん!」
恐れ入った。
「それに、一回フラれたら二回目の告白をしちゃいけません、なんて法律ないでしょ?」
「……ないね」
「だったら!」
彼女はぎゅっと拳を握る。
「まだ私にも、チャンスはあるってことじゃん!」
……さすがは、わが妹。
毎度のことながら、その胆力には、正直、舌を巻いた。
でも――確かにそうだ。
じゃあ、僕はどうだった?
一度くらいの失敗で、勝手に諦めてはいなかったか。
勝手に線を引いて、勝手に終わらせてはいなかったか。
僕は、まだ――
なにも失っていない。
「湊ちゃん! 私、決めた!」
「な、なにを?」
「私、吉野先輩と同じコンビニでアルバイトする!」
「ええ!? だって、うちの高校は――」
「ふふーん。湊ちゃん、知らないの?」
陽菜ちゃんは得意げに胸を張る。
「うちの高校のアルバイト規制、四月から緩くなるんだよ?」
「あぁ……確か、そんな通達があったような……」
「勉強も、部活も、恋も!」
彼女は目を輝かせて言う。
「私は、諦めなーい!!」
……こうなったら、もう止められない。
でも、不思議なことに。
その姿を見ていると、僕の胸の奥にも、なにか火がついた気がした。
「待っててください、吉野先輩!」
陽菜ちゃんは振り返り、声を張り上げる。
「そうと決まったら、あのコンビニに電話して、履歴書書くぞー!」
そう言い残して、彼女はフローリングを滑るように駆けていった。
「……わが妹ながら、なんという行動力だ」
しんと静まり返ったリビング。
天井の埋め込み式空調が、低く唸る音だけを立てている。
「僕も――」
ぽつりと、独り言がこぼれた。
「陽菜ちゃんみたいに、正直に行動しないとね」




