第109話 やっと訪れた転機
あの後、私は大河くんと、まともな会話をできないまま終わってしまった。
外はもう暗い。
いつもなら、もう寝る準備を始めている時間。
それなのに――
私は、またあのコンビニへ向かおうとしている。
ちょっと気まずい。
それなのに、どうして?
理由は、たぶん、
今日の学校の帰り道。
彩ちゃんが、少しだけ真面目な顔で言ってくれた。
「澪っち、吉野くんと何かあったのかもだけどさ。
たぶん、あれ、空回ってるだけだと思うよ。
だから、あんまり気にしすぎないほうがいいと思う」
それから――
さっき、スマホに届いたラインの通知。
瑞希ちゃんからのメッセージ。
『もしかしたら、うちの兄が挙動不審かもですが、気にしないでやってください』
……。
いや。
違う。
そんなんじゃ、ない。
わかってるんだ。
大河くんは、優しいから。
大河くんは、不器用だから。
だから――
いかなきゃ。
「いってきます」
* * *
~♪
今は、とりあえず、いつもどおりに。
……いや、そもそも、勤務中だ。
仕事に集中。
やるべきことに集中。
そう、心の中で何度も唱えながら、
自分に言い聞かせた。
店内に、ほかのお客さんはいない。
彼女は、いつものように――
ブラックコーヒー……ではなく、
まっすぐに、俺のいるレジへ歩いてくる。
顔は、真剣。
(えっ……!?)
彼女は、俺の前で立ち止まる。
「えっと……いらっしゃいませ。……えっと、買い物?」
噛んだ俺の言葉を気にも留めず、
彼女は、ゆっくりと顔を上げて、俺を見つめた。
「――かんを、ください」
「え? なに?」
「時間をください。大河くんの」
「え……っと……ごめん。ちょっと意味が……」
「ホワイトデーのお返し」
迷いのない声だった。
「私に、大河くんの時間をください」
――そうか。
そう、だったんだ。
「桜井さん……」
「大河くんは、ずっと悩んでたんだよね?」
彼女は続ける。
「私への、ホワイトデーのお返し」
「ああ……まぁ、な」
「私だけ、ちょっと重めのバレンタインの贈り物だったから」
「いや! 別に重いだなんてことは――」
そして――
今日の出来事で、俺以上に気まずかったはずなのに。
それでも、彼女はここに来た。
「ううん。重かったよ」
彼女は、そう言って、少しだけ視線を落とす。
「私、あの時……いろいろと、振り切りすぎたし」
「……」
「それに……ほっぺた、はたいちゃってごめんね」
「っ……はは。効いたぜ」
俺はマスクを少しずらし、右の頬に触れる。
彼女の利き手である“左”の一撃は、実に目が覚めた。
「ちょっと、まだあかいね」
「いいくすりだよ。おれも今日は、ずっと反省してた。ごめん桜井さん」
「ううん。反省はわたしもだから」
短い言葉を交わして、俺たちはレジ越しに、ふっと笑い合った。
昼間のぎこちなさは、もうなかった。
「にしても、桜井さん」
「うん?」
「さっきの……俺の時間をくれ、ってやつ」
彼女は一瞬だけ視線を落とし、胸に手を当てて、ひと呼吸置いた。
「うん。だからね……」
そして、まっすぐに俺を見る。
「次のお休み」
少しだけ、声が震れて。
「私と、デートしてください」
* * *
週末。
駅前のショッピングモール。
空は快晴。気温も暖かい。
通りはにぎやかで、楽しそうな人たちの声があふれている。
俺はやや緊張しながら、あの子が来るのを待っていた。
とはいえ――
「ええっと……待ち合わせの三十分前に着いちまった。早すぎたな」
そう。
数日前、桜井さんからデートに誘われた俺は、今まさにその待ち合わせ場所に立っている。
時間だけは、やたらと余っていた。
待っている間にも、いろいろな感情が頭の中を駆け回る。
(デートっていっても、付き合ってるわけじゃないよな。海外だとデートなんて、お茶感覚で行くらしいし。……いや、ここは日本だぞ。デートっていったら、一般的にはもう付き合ってるカップルの儀式、のはずだ。でも最近は、そうでもないのか? 俺、こういう情報には疎いしな。桜井さんも、俺がホワイトデーのお返しに悩んでるの、ちゃんとわかってくれた上で……そのうえで、向こうから“お返し”を提示してくれたわけで。これは、デートではある。でも、デートじゃない……っていうか)
「あー……もう、わからん」
小さく息を吐いて、俺は頭を掻いた。
そのとき――
「なにがわからないの?」
「え?」
振り向くと、そこにはあの子が立っていた。
一瞬、言葉が出なかった。
いつものグレーのスウェットでも、見慣れた学校の制服でもない。
空を写したような淡いブルー色のカーディガンに、シンプルなワンピース。
足元は今時のダッドスニーカー。全体の雰囲気はどこか大人びて見える。
以前よりも伸びた髪は整えられていて、普段より艶があって、毛先が揃っていた。
前髪も、まつ毛も、綺麗だった。あと、口元も。
香りも、ほんのり違う。
甘すぎない、でも確かに女の子だとわかる匂い。
(……あ)
その一瞬で、理解してしまった。
桜井さんは、ちゃんと“デート”として、ここに来てくれたんだ。
「大河くん?」
彼女は少し困ったように笑って、俺の顔を覗き込む。
「へ、変じゃない……?」
「……」
俺は数秒、間を置いてから、ようやく言葉を絞り出した。
「いや……その……」
視線を外して、咳払いをひとつ。
「……変じゃない、よ」
「ほんと?」
「ああ。なんていうか、その、可愛い」
自分でも驚くほど、素直な言葉だった。
桜井さんは一瞬きょとんとしてから、みるみる顔を赤くする。
「っ……! ぁ……!」
慌てて視線を逸らし、左の指で前髪を整える。
そのいつもの仕草すら、今日はいつもと違うように見える。
(なんでだ?)
俺は、さっきまで考えていた
「デートとは何か」
「付き合ってるとは何か」
そんな理屈を、全部手放した。
今、目の前にいるこの子と過ごす時間。
それを全力で楽しむことにしたのだ。




