第104話 俺は(私は)キミに大事な話をします。
夜のコンビニは、三月に入って少し空気が変わったように思う。
昼間の名残をすこし残した風の温度は、冬ほど刺すようなものじゃなかった。
それでも、じっとしていると指先から冷えてくる――そんな夜だ。
店内の明かりがガラス越しに照らし出され、アスファルトがそれを反射する。
自動ドアが開くたびに、軽快な電子音とともにサラリーマンや、トラックの運ちゃんが足早に通り過ぎていく。
そう、
ここはコンビニの外。
いつもの青いベンチ。
俺は缶コーヒーを片手に彼女の左隣に腰を下ろしていた。
そんな中――
隣のその子は俺の方を見て、笑う。
「おつかれさま、大河くん」
「ああ、サンキュ」
俺たちは同じ缶を軽く打ち合わせると、
少し苦みのあるそれを、のどへ流し込んだ。
「ふぅ」
「はぁ」
夜空には薄く雲がかかっているが、
向こうの方には、まだ星の見える切れ間が残っている。
桜井さんは、少し身を乗り出して俺の顔をのぞき込む。
「今回は、目の下のクマ……あんまりないね」
「あ、ああ。今回はな……」
(ち、近い)
「前はすごかったし。今回も学年一位取ったり、私に勉強教えてくれたりしてたから、大丈夫かなって思ってたんだけど……」
「それで、ここに来てくれたのか?」
少しだけ、いたずらっぽく言う。
「えっ……と……ちょっとだけ、ね!」
「ちょっとだけでも嬉しいよ。ありがとな」
桜井さんは照れたように、左手で前髪を整えた。
「そういう桜井さんだって、前よりテストの結果よかったんだろ?」
「え、わかる?」
「わかるよ。あれだけ大島さんが大きな声で話してたんだから」
「あー……彩ちゃん……」
「それがなくても、桜井さんの顔見てたらなんとなく、さ」
「私の顔?」
(あ、しまった。授業中、後ろの席から顔を見てたなんて言えない)
「ああ、そんなに暗い顔してないなーってな」
「……でも、あの掲示板の順位表には入れないんだけどね」
「……人には得意不得意があるって」
俺は缶を握り直して言う。
「実際、俺は五教科はそれなりにできるけど、体育とか家庭科とか、勉強じゃどうにもならない分野はからきしだし」
「そうかな」
「そんなもんだって。確かに、いい大学とか、特定の資格を目指すなら最低限の学力は必要だし、それによって周りから評価もされるんだろうけど」
「うん」
「でもさ。実際に俺たちが生きていくのって――“その先”だろ?」
「……その先?」
「そう」
そのとき、自動ドアが開く音がした。
「ありがとうございました! またお越しください!」
店長のよく通る声が、ここまで届く。
俺は店内に一瞬だけ目を向けてから、続けた。
「――そう、その先」
桜井さんも、つられるように店内の方へ目を向けて、少し考える素振りを見せたあと、ぽつりと言った。
「……生きていく、ってこと?」
「俺は、そう思ってる。いや最近かな、考えるようになったのは」
缶を膝の上で転がしながら、言葉を続ける。
「渚先輩を見てて、それから、ここで働くいろんな人を見てて思ったんだ」
脳裏には多くの生徒、大人たちが焼き付いている。
「ほんと、色んな人がいるなって。本当に、心から」
「うん……」
「毎日みんな大変そうだけどさ。でも、なんだかんだ楽しそうなんだよな」
店の中で動く人影が、ガラス越しに揺れる。
「今の俺たちってさ。
本当はそんなふうに、それぞれ全然違う価値観を持ってるやつらが、あんな狭い教室にぎゅうぎゅうに詰め込まれてるんだぜ?」
桜井さんは、小さく笑う。
「そうだね。みんな個性、すごいもんね」
「だろ?」
俺は空を見上げる。
「テストの順位とか、進学先とか、周りからの評価も大事だけどさ。
その先で、どんなふうに生きるかって、きっともっとバラバラでいいんだと思うんだ」
桜井さんは、なにも言わずにうなずいた。
「俺はやっぱり、東大に行くよ」
自分でも、驚くくらい素直に言葉が出た。
「大河くん……」
「今回は、渚先輩がいるから、とかじゃない」
桜井さんの方を見て、はっきりと言う。
「今は、正直に言って具体的な夢とか目標はない。
でもさ――」
缶を握る指に、少しだけ力を込める。
「自分の足で、自分のやりたいことを見つけて、選んで、生きていくために。
そのために、もう一度そこを目標に頑張ろうって思った」
一拍の間。
それから、桜井さんの顔に、ぱっと花が咲いた。
「……いいと思う!」
「だろ?」
「うん。すごく、大河くんらしい」
「そういうと思ってた!」
俺たちは顔を見合わせて、自然と笑った。
そして、同時に缶を口に運ぶ。
「じゃあ、今度は私の夢の話!」
「お、聞いてもいいのか?」
「私、調理師になりたいの」
その言葉を聞いた瞬間、なぜかはっきりと思った。
(――ああ。この人は、きっとそうなる)
「おぉ、調理師かぁ」
「どうかな?」
少しだけ不安そうに、でも期待を隠しきれない目でこちらを見る。
「どうって……すごくいいと思うよ。
前のクリスマスイブのときにも思ったけど、桜井さんには才能がある」
「ありがとう!」
以前、俺たちくらいの年齢で、将来に対する具体的な夢や目標を持っている人間がどれくらいいるのか、という統計を見たことがある。
確か、そう多くはなかったはずだ。
だからこそ――
この夜の空気のせいもあるのかもしれない。
でも、はっきりと言い切った彼女の言葉には、確かな重みがあった。
夢を「夢のまま」で終わらせない人の声だと、そう感じたんだ。
「桜井さんなら、絶対なれる」
「ありがとう。
それでね、お父さんとお母さんにも話してて……大阪の専門学校に進もうかなって」
「大阪……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に妙な感覚がした。
明るい未来の話だ。
前向きで、ちゃんと地に足のついた生きていくための進路の話。
なのに。
そこには、ひとつだけ揺るがない事実があった。
たぶん、俺達は今、この瞬間に、同時にそれに気づいたのだろう。
「大河くんの目指す東大とは、真逆だけどね。
でも……私にはそこがいいのかなって」
「たしかに、東と西だもんな」
俺達はきっと、同じ感覚を共有してる。
「うん。だからね、大河くん」
「ああ」
だけど――
「あと一年、よろしくね」
「ああ。あと一年、よろしくな」
目と目を合わせて、笑う。
そう、
俺たちは、その胸に浮かんだ“妙な感覚”については、言葉にしなかった。
かわりに――
缶の底に少しだけ残ったコーヒーを、同時に飲み干す。
まるで、その感情にフタをするみたいに。




