第103話 絶対守護聖域・屋上
ギィ。
俺は「関係者以外立入禁止」と書かれた看板と、置かれたカラーコーンを避けながら、鉄のドアを押し開けた。
その向こうに広がっていたのは、一面の夕焼け空。
オレンジ色に染まった空を、数羽の鳥が横切っていく。
下の校庭からは、野球部の掛け声が、風に乗ってここまで届いていた。
暖かくなってきた空気を胸いっぱいに吸い込みながら、俺は足を進める。
――屋上。
フェンスの向こう、その夕焼けを背にして立っていたのは、一人の少女だった。
「よ。こんなところで、何してんだ?」
俺の声に、彼女はゆっくりと振り返る。
「大河か」
生徒会長――霞汐乃。
「生徒会長がこんなところで油売ってたら、まずいだろ。稲葉も桐崎も桜井さんも、みんな汐乃を探してたぞ?」
軽く笑いながら言うと、俺は彼女の横に並んだ。
フェンス越しに見下ろす校庭では、野球部が精力的に練習を続けている。
白いボールが夕日に反射して、きらりと光った。
「あぁ」
汐乃はそう言って、視線をグラウンドに戻す。
「しかし大河。私がここにいると、よくわかったな」
「……あぁ。前のバレンタインの日、お前ここからチョコレートを俺にぶん投げたろ。だから一応、な」
「ふ。なるほどな」
彼女は小さく笑うと、再び口を閉ざした。
その沈黙を気にしないように、俺は続けて言葉を重ねる。
「ここなら誰も来ないし、考え事するにはもってこいだもんな。俺もここに来るのは、ずいぶん久しぶりだけど」
すると、彼女が反応した。
「そうか。私が一年の時、当時の生徒会長から聞いていた“手の焼ける問題児”とは、お前のことだったか」
「あー……。はは。あの会長には、いろいろ世話になったな」
少しだけ、昔の自分を思い出してしまう。
「俺が今こうなった大きなきっかけは、コンビニのアルバイトを始めたことだけどさ。
でも、そのさらに手前で背中を押してくれたのは、一年の時に生徒会長からアルバイトを勧められたことなんだ」
「そうだったのか。私は当時、変わった生徒が同学年にいる、という程度にしか思っていなかったが」
「だろうな」
「早々に退学するだろうとも思っていた」
「だ、だろうな……」
「それがまさか、生徒会副会長に選ばれ、期末テストで学年一位にまで上り詰めるとは。誰も想像していなかっただろうな」
「だろうなぁ……」
フェンス越しに沈みかけた夕日を眺めながら、
俺たちは、同時に笑った。
「なぁ、汐乃」
「……?」
「テストの件――」「ちがう」
「え?」
彼女は、即座にそう言い切った。
「私は別に、期末テストの順位が落ちたことを気に病んでいるわけではない」
「え、そうなのか?」
「今回、私が点数と順位を落としたのは、単純に私自身の怠慢だ」
きっぱりとした口調だった。
「そして、お前が高得点を取ったのも――
それはすべて、大河自身の努力の結果だ」
一拍、間を置いてから、彼女は続ける。
「……素直に言う。流石だ、大河」
その声音は、どこか静かだが芯がある。
「流石は、私の見込んだ男だ」
「……やけに、熱が入ってるな……!」
思わず苦笑しながら言う。
「まぁ、嬉しいけどさ」
「ふ。確かに、大河の言うとおりだ。私は考え事があるとき、よくここへ来る」
フェンスの向こうを見つめたまま、汐乃は言った。
「無論、一生徒としてはよろしくない行為だという自覚はある」
「……別に、そんなの咎めたりしないって。
悩み事があるなら、聞くくらいはできるけど?」
「……」
彼女はゆっくりとこちらを見た。
まっすぐで、探るような視線。
「やはり、お前は他の生徒とは違っているな」
「え、そうか?」
「ああ。お前は私を子供扱いするような節がある」
「そんなつもりは……」
「いい。話を戻そう」
汐乃は視線を夕焼けに戻した。
「私が考えていたのは、進学先のことだ」
「進学か……。お前なら、日本に留まる必要もなさそうだもんな」
「ああ。アメリカの、ハーバード大学を考えている」
「ハーバード!? ……すげぇな、お前……」
「最近はそのために、医学関連の研究論文をいくつか書いていてな」
さらりと言うが、内容はさらりではない。
「その影響で、テスト勉強の方が少し疎かになった」
「疎かにしてなお学年二位キープしてる時点で、十分バケモンだと思うけどな」
「私の家は医師の家系でね。本当は、この高校への進学自体、反対されていた」
「へぇ……」
「それでも、どうしても弓道部に入りたくて、無理を言って通わせてもらった」
汐乃は、わずかに口元を緩める。
「条件付きで、だがな」
「条件?」
「学期末テストで、常に学年一位を取る程度には、勉学に励むこと」
「……え?」
一拍遅れて理解して、思わず声が裏返る。
「ええ!? じゃあ俺のせいで、親御さんに怒られるんじゃ――」
「そのとおりだ」
「ええ!?」
「だから――」
汐乃は、こちらへ一歩近づいた。
「責任を取ってもらう」
「え、責任!?」
「私の傍にいろ」
赤い光を受けた汐乃の顔は、冗談とも本気ともつかない表情をしていた。
「ちょ、それってどういう――」
俺が困ったような顔をしていると、
汐乃はくるりと背中を向けて言った。
「勘違いするな。生徒会副会長として、だ」
――なんだ。
俺は内心、ほっと胸をなでおろす。
「なんだ、そういうことかよ。わかりにくいな」
少し笑って、続ける。
「そんなの当たり前だろ?
これから三年生の卒業式があって、
三年になったら新一年生も入ってくる。
イベントなんて山ほどあるんだ」
「ああ」
「俺だけじゃない。
稲葉も、桐崎も、桜井さんも――
みんな、お前を全力でサポートするって」
「ああ」
「汐乃はさ、よく『生徒のために』って言うだろ?」
「ああ」
「でも、汐乃だって“生徒”の一人なんだからさ」
「ああ……」
俺は一歩踏み込んで――
躊躇なく、彼女の頭に手を伸ばす。
ぽん、と軽く。
撫でる。
「たまには、俺たちのことも頼ってくれよ。生徒会長」
風が、屋上を吹き抜ける。
汐乃は何も言わなかった。
その背中は、さっきよりも小さく見えた。
(しまった!)
俺は我に返り、慌てて撫でていた手を離した。
「あ、悪い! つい、瑞希――いや、妹にしていたのと同じことを……!」
言い訳がましくなった自分が、情けない。
「……」
汐乃は、こちらを振り返らないまま、静かに言った。
「いくぞ」
「え?」
彼女はそのまま、屋上の扉の方へ歩き出す。
「みなが待っているのだろう?
――副会長」
一瞬だけ、その呼び方が胸に残った。
「……ああ! 行こう、生徒会!」
俺は彼女の後を追った。




