第101話 夜のコンビニと僕のブラックコーヒー
バックヤードのタイムカードに、カードを差し込む。
――ガシャン。
やや旧式の機械の音が鳴って、今日のシフトが終わったことを告げた。
俺は肩の力を抜きながら、首にかけていたエプロンの紐を解く。
布を畳み、指定のフックに掛ける動作は、もう完全に身体が覚えていた。
勤務中に張りつめていた神経が、ようやく少しずつ緩んでいく。
(……今日も平和に……いや、そうでもないか。桜井さんと深山、どうなったかな)
そんなことを思いながら、バックヤードの奥へ目を向けた。
店長は、事務用のデスクに座り、パソコンの画面に向かっている。
その横に――一人、男の子が立っていた。
見覚えがある。
(あ……)
少し前、ここで彼が面接に来ていたときに見かけたのだ。
店長と向かい合って、緊張した様子で受け答えをしていた、あの子。
多分――高校生くらい。次の春の新入生だろうか。
黒髪で、背は俺より少し低い。
店長は、彼の顔を見ながらいつも通りに穏やかな声で話している。
「うん、じゃあ熊野くん。次に来るときまでにこの封筒に入れた書類に目を通して、印鑑を押して持ってきてね」
男の子は、背筋を伸ばして何度もうなずいていた。
「はい。よろしくお願いします」
「わからないところがあったら、さっき教えて僕の連絡先に電話してくれればいいから。あ、二十四時間営業だからいつ連絡してくれても構わないからね」
「あ、はい!」
(……なるほど)
どうやら、採用されたということらしい。
少し前までの俺なら、他人事みたいに流していた光景かもしれない。
今は目が離せない。
なぜか。
新人。
新しいスタッフ。
それはつまり、これからこの店で働く“仲間”。
(わかってますよ、先輩)
俺は、未だ空いているあの人が使っていたロッカーを一度だけ見てから、ゆっくりとバックヤードを出る準備をした。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
「うん。お疲れ様、吉野くん。気を付けてね」
隣の彼もぺこりと頭を下げたのが見えた。
――さて。
今夜は、まだ終わっていない。
俺は頭を掻いてつぶやく。
「ったく。でも、ま、一応フォローしとくか」
* * *
彼女――澪さんは、もういなかった。
僕はひとり、青いベンチに腰を下ろし、夜空を見上げていた。
雲は薄く、星が良く見える。
冬ほど澄んではいないけれど、春の匂いが混じり始めた空気が、静かに胸に入ってくる。
すると――
コンビニの裏手の方から、足音が聞こえた。
振り返らなくても、誰なのかはわかっていた。
「よ」
「やあ、大河くん」
彼――吉野大河は、どこかぎこちない仕草で、僕の横に立つ。
「これ、やるよ」
差し出されたのは、黒い缶。
白い文字で“SAKURA COFFEE”と書かれている。
(澪さん……)
「僕はレモンティー派なんだけど」
「いらねぇなら返せ」
「はは、冗談だよ。ありがとう」
僕は受け取り、彼も自分のために買った同じ缶を開けた。
プシュ。
心地良い音が、夜の静寂に響く。
手にした缶は、思った以上に熱かった。
三月になって、昼間はだいぶ暖かくなった。
それでも夜はまだ冷える。
吐く息が白くならないだけで、指先や頬は確実に冷えている。
だから、その熱は今の僕にはありがたい。
ベンチの後ろには、ガラス張りのコンビニ。
店内の照明が、隣の歩道を淡く照らしている。
「知っているかい?」
僕は夜空に向かって、指を伸ばした。
コンビニの白い明かりから少し外れた先。
彼も、つられるように空を見上げた。
「あの、大きくて明るい星が三つ、横に並んでる星座」
「ええっと……確か、オリオン座だっけ」
「そう。冬の王者とも言える星座だ」
大河くんは「へぇ」と声を漏らす。
興味はなさそうだ。
「オリオン座って、あの三つの星だけじゃなくてさ。上の赤いのが肩で、下の青白いのが足。ちゃんと人の形をしてるんだよ」
彼はコーヒーを口に運びながら、黙って僕の話を聞いていた。
「あの赤っぽい星がベテルギウスで、
反対側の青いやつがリゲル。どっちも一等星って呼ばれる、すごく明るい星だ」
「でも色、全然違うよな」
「うん。温度がまるで違うらしい。赤い方は比較的低温で、青白い方はめちゃくちゃ高温」
「……同じ星なのにか」
「そう。同じ。
でも、お互いに実際は気の遠くなるような距離にあって、性質もまったく違う」
僕はコーヒーを握りしめた。
暖かい。
「まるで、人と人の心の距離みたいだろう?」
彼は、たまに見せるやや皮肉めいた笑顔と同時に言った。
「詩人だな。深山は」
「そうでもないよ。それより――」
「ん?」
「このコーヒー。すごく苦いよ」
「苦くていいんだよ。あったかけりゃさ。俺の時は苦い上に冷たかったんだからな」
彼がなにを言いたかったのかを読み取るのは難しかったが、僕はあえて追及はしなかった。
不器用ながらも、僕を気遣って励まそうとしているのだけは伝わるからだ。
僕の恋は、アルテミスに撃ちぬかれたオリオンのように散ったかもしれない。
でも、それでも、きっと、この記憶は――
あの星々のように夜空に輝き続けるだろう。




