第98話 最難関レベルの難問
期末テスト初日の放課後。
俺は生徒会室の扉に手をかけ、軽くノックしてから中へ入った。
――ガチャ。
部屋の中には、ひとりだけ。
凛とした空気をまとい、背筋を伸ばしてデスクに向かう少女がいた。
霞汐乃。
差し込む夕方の光が、彼女の横顔を淡く照らしている。
多忙を極める生徒会執行部といえど、期末テストの期間は別だ。
受験を控える俺たちにとって、この期間は最重要任務。
そのため、生徒会活動は一時休止――のはずだった。
「よ、汐乃。テスト勉強はいいのか?」
俺が軽く声をかけると、彼女は手元の書類から一度だけ視線を上げる。
「大河か、どうした? 今週は来なくていいと言ってあっただろう?」
相変わらず、無駄のない口調だ。
「いや、なんとなくな」
「そうか……ん、大河」
彼女は俺の目を見て言った。
「なんだ?」
「お前……。いや、なんでもない」
「なんだよ?」
「いや、いい。忘れてくれ」
彼女は再び視線を書類へ戻し、ペンを走らせる。
「まぁいいけど。それより期末テスト、そっちはどうだ。手応えは?」
「いつも通りだよ、私は」
正直な感想だった。
「そうか。それなら結構だ。流石は学年一位は余裕だねえ」
「そうでもないさ、大河」
「で、だ。活動休止のはずなのに、ずいぶん仕事してるじゃないか」
俺が室内を見回すと、机の上には資料や書類が山積みになっている。
彼女はテスト勉強などではなく、来週に控えた三年生の卒業式のプログラムの確認や、入学生徒用のパンフレットに印字される在校生インタビューの原稿の推敲を行っていたようだった。
汐乃はペンを置き、ようやくこちらを見た。
「私が動かなければ回らない仕事もある」
「ふーん」
俺は自分の机の中から椅子を一つ引き出し、汐乃の隣に置いた。
「なんだ、大河?」
「いや。でもまあ、無理はするなよな」
そう言って椅子に腰を下ろし、小脇に抱えていたノートと参考書、筆記用具を机の上に並べる。
「……ここなんだけどさ」
俺は問題集の一箇所を指さした。
「単語は全部わかるのに、意味が頭に入ってこない」
汐乃は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにこちらへ身体を寄せる。
「どこで止まってる?」
「この however から先」
彼女はちらりと紙面に目を走らせた。
「そこ、単なる接続副詞だと思って読んでるな?」
「違うのか?」
「違わない。でも、それだけじゃ足りない」
淡々とした声で、汐乃は言う。
「この however は“話題を変える”ための合図だ。
ただし、この文脈だと――」
指先で前の文をなぞる。
「筆者は、ここから一段深い話を始めたがっている」
「……ほう?」
「前半は前置き。本音はこの後」
俺はもう一度、問題文を読み直す。
「……あ」
「わかったようだな」
汐乃の口元が、わずかに緩む。
「英語は数学とは違う。
機械的に訳せばいい、という教科じゃない」
「……というと?」
「筆者の心理、性格、癖。それを読む教科だ」
「それ、国語じゃないか」
「英語だって“海外での国語”だ」
さらっと言い切られて、俺は言葉を失った。
……なるほど。
こいつがトップに立つわけだ。
汐乃は静かに立ち上がって言った。
「……お前もコーヒーを飲むか?」
「ああ、頼む。でも角砂糖は一つでいいぞ。お前に任せると、病気になるほど入れるからな」
「ふ」
短く鼻で笑い、彼女は棚からカップを二つ取り出す。
電気ポットのスイッチを入れると、やがて低い音を立てて湯が沸き始めた。
俺はその間も、英文に目を落としながら口を開く。
「最近さ、深山が……ええと、深山湊介。あいつがやたら俺に突っかかってきててさ。お前知ってたっけ?」
「生徒の顔と名前は、全員把握している」
即答だった。
「だよな」
苦笑しつつ、続きを口にする。
「俺、最近知ったんだけどさ。
あいつ、結構評判いいんだな。成績も一年の頃から、俺より上だったみたいだし」
汐乃は湯を注ぐ手を止めずに、言った。
「何が言いたい?」
俺はペンを置き、肩をすくめる。
「いや、お前なら、あいつを副会長候補に入れそうなもんだと思ってさ」
俺がそう言うと、汐乃は一瞬だけ視線を落とした。
「……無論、私も筆頭候補として考えてはいた」
淡々とした声。
「私も基本的には能力主義者だったからな」
「……だった?」
その言葉に引っかかって聞き返す。
汐乃は何も言わず、カップに角砂糖を一つ、また一つと落としていく。
(……甘そー)
「ああ」
短く答えてから、ぽつりと続けた。
「だが、桐崎と稲葉を両翼に据えてから、一度立ち止まったんだ」
「ふーん。なんでまた?」
「……なぜだろうな」
少しだけ、言葉を探す間。
「私にも、よくわからん」
「即答しないのは珍しいな。お前にしては」
「ふ」
小さく笑って、認めるようにうなずく。
「そうだな。確かに」
汐乃はカップを持ってこちらへ戻ってきて、それを差し出した。
「ほら」
「サンキュ」
コーヒーのいい香りが、鼻先をくすぐる。
俺たちはしばらく言葉もなく、ただカップを傾けていた。
「はぁ……」
息を吐くと、身体の奥まで温かさが染みてくる。
「どうだ、大河?」
「うまい」
「そうか」
「汐乃は?」
「あまい」
「だろうな」
そんな他愛もないやり取りに、ふっと肩の力が抜ける。
やがて一息ついたところで、汐乃が静かに口を開いた。
「確かに、深山湊介は優秀だ」
淡々と、事実を並べるように。
「学力もあるし、本人も元々、生徒会長への立候補を強く考えていた。私が当選した後も、生徒会メンバー入りを熱望していたな」
「へぇ」
「能力もある。熱意もある。副会長のポストも、当時はまだ空いていた」
「うん」
「……だが、採用しなかった」
カップの縁に視線を落としたまま、汐乃は続ける。
「結果として、あの日私は――大河。お前のところへ行った」
「なるほどな」
俺は苦笑して言った。
「何を買われたのかはわからないけど……光栄の至りだな」
汐乃は少しだけ口元を緩める。
「買った覚えはない」
「即答だな」
「ただ――」
一拍。
「――“私と一緒に責任を背負ってくれる人間かどうか”を、考えただけだ」
そう言い残すと、汐乃は珍しくぷいと顔を背けた。
飲み干したコーヒーのカップを手に、そのまま立ち上がる。
「え?」
「今のは、気にしなくていい」
それだけ言って、彼女は流しの方へ向かおうとした。
その時だった。
――つまずく音。
「きゃっ」
「汐乃!」
足を引っかけた彼女の手から、白いコーヒーカップが離れる。
乾いた音を立てて、床を転がった。
「大丈夫か!?」
「ああ……」
咄嗟だった。
倒れそうになった彼女を、俺は反射的に引き寄せていた。
抱き留めるような――そんな距離。
彼女の体温が、はっきりと伝わる。
俺たちは一瞬、そのまま固まった。
彼女は、俺を見上げたまま静かに言った。
「そうだ。私がお前を選んだのは――こういうことだよ、大河」
「え? それって、どういう……」
声に出したものの、うまく続かない。
彼女の表情が、いつもと違って見えた。
凛としてはいるが、どこか柔らかい。
やがて汐乃は、俺の腕からすっと離れ、自分の足で立った。
床に転がっていた白いコーヒーカップを拾い上げる。
そして――
それこそ本当に珍しく、屈託のない笑顔を浮かべて言った。
「そこは、私が教えることじゃない」
一拍。
「自分で考えることだ、大河」
「……」
俺は、間の抜けた声を漏らす。
「……わからねぇ」
その言葉に、汐乃はくすりと笑った。
人の感情は期末テストなんかよりも、ずっと難しいのだ。




