第97話 開花 ver.2
教室の扉に手をかけた、その瞬間だった。
「おはよう、大河くん」
聞き慣れた、そして少し暑苦しい声。
「深山か。ああ、おはよう」
振り向くと、案の定、廊下の真ん中に深山湊介が立っていた。
腕を組み、やけに晴れやかな顔をしている。
「今日はお互い、頑張ろう。期末テスト初日だしね」
まるで決起集会の号令みたいな言い方だ。
俺は一瞬きょとんとしてから、自分でも驚くほど、自然に肩の力を抜いた。
「おう。ま、そりゃあそうだな」
深山が、わずかに眉を上げる。
「ずいぶん落ち着いてるね。昨日までの君なら、もう少しピリピリしてると思ってたけど」
その言葉に、俺は苦笑する。
「ああ、かもな」
言いながら、教室の中を一度だけ見渡す。
机、椅子、黒板。
いつもと何も変わらないはずの風景が、今日は妙にクリアに見えた。
「なんて言うかさ……」
俺は深山のほうに視線を戻して、肩をすくめる。
「上手く言えないけど、今までよりも――
方程式が、“頭に入って”仕方なかったんだよ」
「……え?」
彼が目を瞬かせる。
「昨日の夜、解いてた問題もさ。今までみたいに公式を思い出そうとか、無理に覚えようとか、そういう感じじゃなくて」
俺は手のひらを広げる。
頭の中に、すっと線が引かれる感覚。
数字と数字が、記憶と記憶が自然に繋がっていく感覚。
「気づいたら、答えまで一直線だった」
まるでスイッチが切り替わったみたいだった。
いや――
ずっと前からあったものが、ようやく噛み合っただけなのかもしれない。
手のひらをもう一度握って深山に言う。
「だから、今回は五教科とも満点を目指すぜ」
深山は数秒黙ったあと、ふっと口元を歪めた。
「……大河くん。やっぱり君は面白いやつだね」
「かもな」
俺は緩く笑って返す。
「満点を目指すからには敵はお前でも、汐乃でもない」
深山の目に、火が戻る。
「……言ってくれるじゃないか」
そう言うと彼は自らの教室へ戻っていく。俺はそれを見届けてから、自分の教室の扉を開けて中に入っていく。既に何人かの生徒が、今日のテストの問題を覚えようと奮戦している。
自分の席へ向かおうとした、その途中。
「あ……大河くん……」
呼ばれて、足を止める。
桜井さんだ。
俺と目が合った瞬間、彼女はわずかに視線を逸らし、左手で前髪を整える。
(……?)
これは彼女がたまにやる、どこか落ち着かない時の仕草。
昨日の夜とは、少しだけ雰囲気が違う。
「おはよ。桜井さん、昨日は途中で寝落ちしてたみたいだな」
とりあえず、いつも通りに声をかけた。
すると――
彼女は一瞬、ぴたりと動きを止めて。
「……」
それから、ほんの小さく息を吐いた。
それはため息、だったように見えた。
(なんで?)
「……おはよう。大河くん」
彼女は漫画でよく見るいわゆるジト目で俺を見た。
「あ、ああ」
(どうかしたのか?)
俺は数学の方程式を解くかの如く、自らの乏しいコミュニケーションスキルや知識を総動員して演算した。
昨日、電話で勉強して。
そのまま寝落ちして。
起こさずに切ったのが、まずかったか?
そんな考えが一瞬よぎる。
でも、桜井さんは俺の顔をちらりと見て、すぐに視線を床に落とした。
「……大河くん」
彼女が、何か言いかけて口を閉じる。
その間に、教室のざわめきが一段大きくなる。
テスト前特有の、落ち着かない空気。
「ううん! 昨日は私のわがままに付き合ってくれてありがとう! お互いがんばろうね。今日は!」
そう言って、桜井さんは笑った。
「ああ!」
その後。
俺は自分の席に腰を下ろした。
椅子を引く音に混じって、周囲から紙をめくる音や小声の確認が聞こえてくる。
教室全体が、テスト前特有の緊張に包まれていた。
その中で、背後から軽い声が飛んでくる。
「相っ変わらず、お前は桜井さんといい感じだよな。前よりも」
橘だった。
俺は苦笑しながら、鞄を足元に置く。
「そうか? まぁ、生徒会でも一緒だしな」
「それにさ……」
「ん?」
俺は振り返る。
橘は少しだけ言葉を選ぶように間を置いてから、続けた。
「なんか、お前変わったな」
「俺? 毎日会ってるのに?」
「ああ。なんつーか……前よりこう……」
橘は自分の後頭部を掻きながら言う。
「憑き物が落ちた、って感じ」
その言葉に、思わず小さく息を吐いた。
(……たぶん、間違ってない)
俺自身、うまく言語化はできない。
何がどう変わったのか、はっきり説明しろと言われたら困る。
ただ――
前みたいに、誰かの背中を必死に追いかけている感覚がない。
とでも言えば良いか。
筆箱を取り出し、机の上に置く。
シャープペン、消しゴム、替え芯。
一つずつ、いつもの位置に並べていく。
不思議と、手元が落ち着いていた。
「……まぁ、そうかもな」
そう答えると、橘はにやっと笑った。
「だろ? なんか今のお前、普通に頼もしいぞ」
「そういうお前は、相っ変わらず頼もしくないな」
「お前なぁ!」
橘は大げさに声を上げる。
「せっかくいいこと言ってやったのに、それかよ!」
「残念だけど事実だろ」
「くっ……言い返せねぇのが腹立つ!」
「ははは!」
思わず笑い声が漏れた。
こんなふうに、肩の力を抜いて笑えるのも久しぶりな気がする。
テスト前だというのに、不思議と胸の奥は静かだった。
「まぁいいや。お互い、やれるだけやろうぜ」
「ああ」




