第96話 わがまま
「夜道は暗いから、気を付けて帰るんだよ」
陽一さんはそう言いながら、サクラコーヒーの扉を開けてくれた。
「はい。ごちそうさまでした」
俺が一礼して店を出ようとした、そのときだった。
「吉野くん」
「はい」
振り返ると、陽一さんはいつもの穏やかな表情のまま、俺を見ていた。
「さっき、君は言っていたね。
小さな承認欲求のために、自分は頑張ってきたんだって」
「あ……はい」
「最初は、それでいいんだ」
「……そう、でしょうか?」
正直、まだ腹落ちはしていなかった。
でも――
「だまされたと思っていい」
陽一さんは、はっきりと言った。
「一度、“極めて自分勝手な動機”で動いてごらん」
「自分勝手な動機、ですか」
「わがままになりなさいってことさ。人にとって、それが一番わかりやすくて、そして一番大きな力になるんだよ」
これはきっと、経験からくる言葉だった。
俺は少し考えてから、うなずいた。
「……はい。わかりました。考えてみます」
「うん」
陽一さんは、満足そうに微笑んだ。
「楽しみにしてるよ」
俺はもう一度頭を下げて、夜の駅前へと足を踏み出した。
* * *
俺はその後、忘れずに駅前のアイスクリーム屋でアイスを買い、紙袋を手に下げて帰路についていた。
暖かいコーヒーを頂いたおかげか、心なしかさっきまでよりも足取りは軽いような気がする。
頭の中では、先ほど陽一さんに言われた言葉が、何度も反芻されていた。
「――わがままになれ、か」
口に出してみると、なんだか不思議な響きだった。
確かに俺は、物心ついたときから
こうあるべき、とか
こうしなければならない、とか
そういう枠の中で自分を縛って生きてきた気がする。
家族のこと。
進学のこと。
人との距離感。
それが悪いとは思わない。
でも――それだけじゃ、足りなかったのかもしれない。
そのときだった。
ポケットの中で、スマホが震える。
――ブブッ。
「ん?」
立ち止まって取り出すと、画面に表示されていた名前に、思わず目を瞬かせた。
『桜井澪』
なんだろう。
通話ボタンをタップして、耳に当てる。
「もしもし?」
『あ、大河くん? 今、大丈夫? テスト期間中はほとんどアルバイトお休みだったよね』
受話器越しに聞こえてくる、少し遠慮がちな声。
「ああ、大丈夫だよ。どうした?」
『よかった。あのね……明日の数学のテストなんだけど。出題範囲の後半のところで、どうしても一問だけわからなくて……』
夜道を歩きながら、俺は少しだけ笑った。
「なんだ、そんなことか。どの問題?」
『えっとね――』
そう言って説明を始める桜井さんの声を聞きながら、俺は思う。
――ああ、これか。
これが今の俺の“原動力”。
誰かに必要とされること。
頼られること。
そして、それを素直に嬉しいと思えること。
俺は小さくつぶやいた。
「……これか――」
『え?』
「これだったんだ。俺が、わがままになるべきこと」
『大河くん? 急にどうしたの?』
「いや。なんでもないよ」
『変な大河くん』
「桜井さんほどじゃないよ」
『もー、なにそれ』
「はは」
そんなやり取りをしているうちに、俺は自分のアパートの前まで来ていた。
――そのときだった。
通話口から少しだけ意識が逸れる。
家の前に、誰かが立っている。
(……こんな時間に?)
やや郊外にあるこのアパートは、夜になると人通りも少ない。
街灯も等間隔にしかなく、敷地の前は影が多い。
俺は歩調を緩め、距離を詰める。
暗がりの中に浮かび上がる、人影。
男――だ。
背は俺と同じくらいか、少し高い。
やや年季の入ったレザーの上着を羽織っていて、顔はまだよく見えない。
『大河くん? どうしたの?』
電話越しの声が、少し不安そうになる。
「あ、ごめん。ちょっとだけ待って」
『うん……』
俺は通話を切らずに、そのまま男に近づいた。
数歩、また数歩。
街灯の光が、ようやく男の横顔を照らす。
その瞬間――
(……あ)
見覚えのある顔。
いや、見間違えるはずがない。
こんな時間に、
こんな場所で、
いったいどうして――。
その男は、スマホの画面を見ながら、アパートの一室を見上げていた。
けれど、俺の視線に気づいたのか、ふっと顔を上げ、こちらへ向き直る。
間違いない。
俺は、通話口に向けて、声のトーンを落として言った。
「あ、桜井さん。今、俺ちょっと外でさ……」
彼女に余計な心配をかけないように、言葉を選ぶ。
「少ししたら、俺からかけ直すから。待っててくれるか?」
『あ、うん……。わかった』
通話が切れる。
俺の前に立つその男――
「その声……もしかして……大河、か?」
「……ああ。親父」
俺たちは、しばらく無言で向き合った。
どこか遠くで、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
「大河――」
「……なんで来たんだ?」
俺は、自分の脳がひどく冷えていくのを感じていた。その一方で、体の奥では、じわじわと体温だけが上がっていく。
「わかってるよな。俺たちは、面会交流は拒否する姿勢だって」
言葉を選ばず、はっきり言う。
「少なくとも、瑞希が成人するまでは」
父は、その場に立ち尽くしたままだった。
今年の初詣のとき、久しぶりに姿を見た。あのときはあまりにも突然で、ろくに記憶に残っていない。
――でも今、こうして改めて見ると。
少し、痩せたようにも見えた。
今はあの時とは違って夜の時間だ。
それに、さっきまで桜井さんと話していたせいか、俺自身も前回よりは落ち着いて状況を整理できていた。
父親は、かすれた声で言う。
「もちろん、これがわがままなのは……わかってる」
「だったら悪いけど、帰ってくれよ」
「待ってくれ、大河!」
俺は一歩も動かず、続けた。
「連絡なら、母さんとは最低限とってるんだろ?」
俺が、ちらりと親父を見ると――
「……え?」
その瞬間、親父は深く頭を下げていた。
「……すまなかった。この通りだ、大河」
「なんのつもりだよ」
思わず、声が低くなる。
「やめろよ。こんなところで」
「……もちろんだ。
こんなことで、許してくれとは思っていない」
親父は、頭を下げたまま続けた。
「だが、せめて……せめて、瑞希にも謝らせてほしい」
「……いいから、帰ってくれ」
喉の奥が、ひりつく。
「……頼むから」
「っ……」
親父の身体が、震えていた。
しばらくの沈黙のあと、親父はゆっくりと頭を上げた。
「……そうか。わかった。だが、またくる」
それだけをつぶやく。
踵を返し、アパートの前から一歩、また一歩と離れていく。街灯の届かない場所へ向かうたび、その背中は闇に溶けていった。
足音が、遠ざかる。
やがて、それすらも聞こえなくなる――
俺は、その場から動けずにいた。
(……俺はやっぱり怒ってる)
それは、間違いない。
許せない気持ちも、消えていない。
それなのに――
胸の奥に、言葉にできないものが残っている。
突き放したはずなのに。
正しいことを言ったはずなのに。
(……なんでだよ)
後味の悪さが、じわじわと広がっていく。
俺は息を吐き、拳を握った。
* * *
「ただいまー」
陽一さんに人生相談をしていたのもあって、帰りは思った以上に遅くなってしまった。
当然といえば当然だが、家に入るなり――
「遅い!」
と、瑞希から文句を言われた。
しかもその勢いが、なかなかのものだった。
これは長期戦になるな、と思った、その瞬間。
俺は黙って、手に提げていた袋からそれを差し出す。
「……はい」
駅前のアイスクリーム屋で買ってきた、あいつが前から欲しがっていたアイスの――いわゆる“プレミアムバージョン”。
「……え」
一瞬、瑞希が固まる。
「……プ、プレミアムじゃん!」
「これで文句ないだろ!」
「……む」
数秒の沈黙。
そして。
「……良かろう。今回は、許してあげる」
どこか恩着せがましく言われたが、文句のマシンガンが発射されなかっただけで十分だ。
父親に会ったことは今は母さんにも、瑞希にも言わない方がいいだろうな。俺にとっては、この平和を壊さないことのほうが重要なのだ。
やがて自分の部屋に戻り、机の前の椅子に腰を下ろす。
静かになった部屋で、ようやく一人きりになる。
「……ふぅ」
自然と、ため息が漏れた。
俺はスマホを手に取り、画面を操作する。
かける相手は、決まっている。
桜井さん。
通話ボタンを押しながら、俺は椅子の背にもたれた。




