第9話 シャンプーの香り
窓の外は薄い雲で覆われていた。
「んん、なんかダルい」
やがて、目を開けると喉が焼けるみたいに痛い。
体温計が鳴るのを待つ間もひどく身体が重かった。
ピピピピ――
デジタル画面の表示は三十七度八分。
「……やっべ。やっちまった」
そんな俺の声に、ドアの向こうから足音がして、母さんが顔をのぞかせた。
「ほらね。昨日の帰り、遅かったんでしょう。バイトに勉強に、無理しすぎ」
「今回はそれだけじゃないよ……。イレギュラーというか」
「なに言ってんの? ま、こういうときはしっかり休みなさい」
「仕方ないか」
リビングに行くと、母さんは流しでコップをゆすぎながら、妹の瑞希に声をかける。
「今日は私、仕事で遅くなるから。夕飯のお金は置いておくね。瑞希、学校のあとなにか買ってきておいて」
「はーい。お兄ちゃんは手がかかるねぇ」
瑞希は洗面所の鏡の前に立ち、髪を耳にかけながら手慣れた様子でコンタクトレンズを入れている。そのまま鏡越しに、リビングにやってきていた俺ををちらっと見て笑う。
「ほら、早く休まないと。顔、真っ赤だよ」
「ああ……そうするよ」
そのあと、学校に欠席の連絡を入れ、バイト先の店長にも電話をかけた。
『あらら、君が体調崩すなんて珍しいねぇ。こっちの心配はしないで、ゆっくり休みなさい』
「すみません。ありがとうございます」
母と妹が出ていく。やがて玄関の閉まる音。
残ったのは時計の針と、遠くを走る車の音だけだった。
「ほんじゃ、寝るか」
布団にもぐると、空気はひんやりしているのに身体だけが火照っている。
まぶたを閉じれば、また公園のベンチで笑っていたあの横顔が浮かんだ。
――ヘッドライトに照らされた、少し心細そうで、それでも前を向いた笑顔。
「桜井さん。大丈夫かな」
* * *
数時間後。
俺はいつの間にか眠っていたようで、目を開けると昼の白い光がカーテンから降り注いでいた。
台所に母さんが作り置きしてくれたうどんがあった。「温めて食べて」とマジックで書いた付箋。
「あー、風邪なんて引くもんじゃないな」
湯気の立つうどんをすくいながらつぶやくと、テーブルの上のスマホが震えた。画面には「橘海斗」。
『学校終わったら、宿題届けにいくわ。ついでに見舞いも』
「見舞いがついでかよ……。まぁ、でもありがたいな」
短く返信して、うどんを食べたあと、また布団へ戻る。
浅い眠りを何度も行き来しているうちに、部屋の明るさがじわじわとオレンジ色に変わっていった。
――ピンポーン。
「ん、ああ。橘かな」
インターホンの音で上体を起こす。
喉がからからで声が出ない。
スマホで『開いてるから入ってくれ』と橘にメッセージを送ると、玄関が開く音、廊下のきしむ音。
うちの間取りはあいつが一番よく知っている。俺達は一年の時から何人かで集まってたまにこの部屋でゲームをしたりするからだ。
――コンコン
「入るぞー、大河」
「おう」
がちゃり、とドアが開いた次の瞬間、風邪とは別の理由で心臓が跳ねた。
この家には似つかわしくない、華奢な身体がそこに立っていた。
「えっ……さ、桜井さん?」
俺は風邪で喉の調子が悪いこともあってかその声が裏返ってしまった。
橘の肩越しに、桜井さんが立っていた。
髪をゆるく後ろで束ね、黒縁の眼鏡。
昼の桜井澪――けれど、昨日の夜を知ってしまったせいで、どこか距離の測り方が分からなくなる。
「人数は多いほうが嬉しいだろ? 俺が先生からこの宿題を預かって、お前の家に行くって宣言したあとに桜井さんが、一緒についていっていいかって聞いてきたんだ」
橘は桜井さんに見えないとわかっているからかニタニタと笑っている。
「そうだったんだ」
俺は布団の上で上体を起こしながら、彼女の視線を受け止めた。
桜井さんがゆっくりと部屋の敷居を跨ぐ。
彼女は少し緊張したように、けれどまっすぐに俺の目を見る。俺の部屋に桜井さんがいるっていうのはやっぱり変な感じだ。
「……吉野くん、身体は、大丈夫?」
「ああ。たぶんただの風邪だろうし、大人しく寝てれば治るよ。来てくれてありがとな」
「うん」
短い沈黙。
橘がわざとらしく咳払いする。
「えー、大河! 先生からの預かりもの、ここに置いとく。……で、思い出した! 俺、今日このあと用事あったわ!」
「は?」
「じゃ、桜井さん。少し大河の相手してやってくれ。俺、帰るから!」
言うが早いか、カバンを担いで踵を返す。廊下の向こうへ遠ざかる足音。
(あいつ……変な気を回しやがって)
部屋には俺と桜井さんだけが残った。
窓の外では、どこかでカラスが鳴いている。熱のせいで、思考のピントが合ったり外れたりした。
「吉野くん。昨日は、ありがと。あんな遅い時間に、私のことに付き合わせちゃって。寒かったよね。上着も貸してくれたし、その……風邪、私のせいだよね」
彼女はベッドのそばの床に正座して、申し訳なさそうに目を伏せる。
「ち、ちがうって! 俺が勝手にやっただけだから。気にすんなよ」
言いながら、台所へお茶を取りに行こうとベッドから出て、身体を起こす。
「せっかく来てくれたんだし、お茶くらい出すよ――」
「だめ! 熱あるんでしょ。私がやるから」
「いや、これくらい大丈夫……」
そう言って立ち上がったのがまずかった。視界の端がすうっと暗くなり、床が遠くなる。身体がぐらりと傾いた。
「吉野くん!」
(やべ。倒れる)
けれど、身体は床に落ちなかった。
腕を取られ、胸のあたりを支えられる。その瞬間、ふわりとシャンプーの甘い香りがした。彼女の指先の体温が、服越しに確かに伝わる。
「……っ、ごめん。桜井さん」
「いいの。座ってて」
近い――
こんな距離で見る昼の桜井澪は、夜の彼女とはまた違っていた。
長いまつ毛の奥の瞳は傾いた陽の光と合わさって赤かった。
俺は熱のせいにして、視線を逸らした。




