【エピローグ】十九路の夜は明ける
U22国際青年囲碁選手権から、三ヶ月。
夏が過ぎ、秋風がほんのりと色づき始めた北京・中国棋院の中庭には、心地よい静けさが流れていた。
午後の日差しの中、ユエは黙々と盤に向かっていた。
対面にいるのはシェン・シン。U22選手権以降、ますます読みの精度に磨きがかかっている。
「……っていうか、さっきの一手、ちょっと甘かったよ」
ユエが肩をすくめると、シェン・シンは眉をひそめた。
「あなたこそ、中央のハサミが雑だった。ほら、AIならこう打つ」
彼女はすかさずタブレットを開き、画面に変化図を映し出す。
そこへ、テラスから現れたのは魯 凰だった。
いつも通りの無表情 ――かと思いきや、少しだけ口元が緩んでいる。
「……おしゃべりに夢中で、読みが浅くなっている」
「ちょっと! 人が打ってるのに、いきなり評論しないでくれる?」
「いや、だってさ」
魯 凰は、珍しくほんの少し茶化すような口調で言った。
「……あいつが来たから、連れてきたんだよ。」
「あいつ?」
ユエとシェン・シンが揃って振り返る。
石畳の向こうから、荷物を肩に背負った見慣れた風貌の青年が歩いてきた。
黒のジャケット、少し伸びた前髪。
そして――あの、どこか“読まずに打つ”ような不敵なまなざし。
「……お、お前、なんでここに!?」
シェン・シンが、驚き叫び、棋院中庭の静けさを破った。
光志は手を挙げて笑った。
「いや、実はさ。来月から、中国プロリーグに出ることになってさぁ。」
「はあ!?」
ユエも驚き叫ぶ。
「日中棋士交流プロジェクト? それって、ただの話題作りでしょ!? ……なんであんたが?勝手にそんな展開あり!?」
「ま、俺も昨日聞いたんだけど」
光志はあっけらかんと言った。
「中国棋院も、君の碁に“興味”があるようだね。」
魯 凰が言い、シェン・シンが目を細める。
「……あの“創造性”か。読みを超えて、感覚で打つあの碁。正直、AIよりも厄介」
「褒めてる? けなしてる?」
「興味はある。」
「君の碁は、まだ“未完成”。でも、だからこそ面白い。……次は、必ず勝つ」
魯 凰は、囲碁盤の縁を指でなぞりながら、いつになく饒舌に呟く。
「最初に、言っておく。俺、中華料理にはうるさいからな。案内よろしく」
光志が、おどけて言うと
「それ……棋力関係ないから!」
ユエが盛大にため息をつきながらも笑いながら言うと、手の持つスマホにぶら下がった、くすんだ緑のパンダのキーホルダーが揺れる。
「まさか……こんなに早く、あなたと打つ日が来るとは、思ってもみなかったわ」
「……あの夜の対局は、なんだったのよ?」
「あの夜の対局って?」
シェン・シンが首をかしげながらつぶやく。
光志は少し照れたように答えた。
「まだ終わってなかったんだよ、あの対局は」
ユエは少しだけ膨れた表情で、腕を組む。
「中国のプロリーグは、そんなに甘くないんだから」
けれどその目は、どこかうれしそうだった。
碁盤の前に、四人が集まる。
中庭を吹き抜ける風が、未来の気配を運んでくる。
遠くない未来――
再び国際棋戦で、彼ら四人が同じ盤を囲む日が来るだろう。
そのとき、どんな十九路の物語が紡がれるのか――
まだ誰にもわからない。
だが、ひとつだけ確かなのは、十九路の夜は、もう明けたようだ。
O・W・A・R・I...