【終局】感想戦
国際囲碁ワールドカップU22が閉幕して数日。
東京の夏は、少しだけやわらかくなっていた。
その日、ユエから光志にメッセージが届いた。
「光志、久しぶりに高校の囲碁部に行ってみない?」
数年ぶりに戻る囲碁部は、記憶の中より少し狭く感じた。
けれど、あのときの空気はそのまま残っていた。
静かで、真剣で、どこか心地よい。
先に囲碁部に着いた光志は、静かに持っていたカバンを置いた。
そのとき、カバンのファスナーにぶら下がっていた“それ”が、ふと目に入る。
パンダのキーホルダー。
白地にピンクの耳、どこか誇らしげな顔立ち。ユエが大切にしていた限定モデルのレアものだ。
──全国高校大会の前、ユエが中国に帰る別れ際。
「また会えたら、返そうね」
そう言って、二人はそれぞれのキーホルダーを交換し合った。
──そんな約束が、いまもまだ胸の奥で息づいている。
ふと、あの瞬間がまざまざとよみがえる。
手の中にあるこのキーホルダーは、あの頃より少し傷つき、けれど今も光志の傍にあった。
「……返すの、もう少し先でもいいかぁ。」
独り言のように呟いた瞬間、扉がカタンと開いた。
「準備できてる?」
対局場以外で見る彼女は、大人びて見える。
手に持つスマートフォンには、色褪せた緑のパンダのキーホルダーが揺れていた。
──かつて光志が持っていた、おどけた表情のパンダ。
光志は目を細め、それをひと目だけ見つめると、
自分のカバンに付けていたレアもののパンダをそっと外し、荷物の中へしまった。
そして、何も言わず盤の前に座る。
ユエも、静かにその向かいへ。
再び、十九路の盤を挟んだ――二人だけの一局が始まろうとしていた。
「じゃあ……始めようか」
パチリ。
ユエが黒石を置いた。
光志は、少しだけ笑って白石を握る。
十九路の盤上に、静かに音が響く。
それは、再会のための一局。
勝ち負けではなく、あれからのお互いの想いを交わす感想戦の様だった。
*
中盤。中央で火花を散らす攻防。
大模様を張った光志に、ユエが鋭い挟みを返す。
まるで「離れすぎないで」と訴えるような一手。
「……前より、攻めが深くなったね」
ユエが盤から目を離さずに言う。
「お前こそ、昔より間合いを取るようになった」
「間合いを取らなきゃ、届かないこともあるから」
光志は苦笑しながらも、わざと無理筋の肩ツキを放った。
“届かない距離”に橋をかけるような手。
「……そんな手、読めてても止められない」
「止めないでくれよ。届くまで打つから」
二人の石は絡み合い、盤上に複雑な形が広がっていく。
それは、互いに歩む道が再び離れる予感を知りながらも、今だけは交差し続けようとするかのようだった。
*
ふたりの静かな手のやり取りを、光志の荷物の横でじっと観察している影があった。
《幻影ちゃん》だ。
その横には、カバンから顔を出したパンダのキーホルダー。
「……いやぁ〜、青春してんねぇ〜。
感想戦って、本来はもっと“こつこつ地味な検討”だと思ってたけどさ、
この二人のは……もう、“恋文の返し”みたいなもんだよねぇ」
パンダはもちろん無言。
それでも幻影ちゃんは勝手に相槌を想像して、話を続ける。
「なぁパン吉さんよ、これ何局目だい? 感想戦って名の、実質デート回。
次の対局に進む日は……いつ来るんだろうねぇ?」
パン吉は無言だ。
だが、微妙に口角が上がって見えるのは気のせいだろうか。
幻影ちゃんは、どこか落語のフレーズを思い出したように、にやりと笑った。
「ほら、“終わったつもりの噺ほど、ちゃっかり続く”ってやつ。
あれ、この盤の上じゃ……特に効き目が強いみたいだねぇ」
*
終局。
最後の一手をユエが打ち、盤上が静けさに包まれる。
「……ありがとう」
ユエが先に言った。
「こちらこそ」
光志も応じる。
しばらくふたりは黙って盤を見つめた。
それでも、そこには“何かを超えた”空気があった。
やがて、ユエが立ち上がる。
「明日、中国に戻ることにした。そしてプロ棋士としてやっていく!」
「……そうか」
ユエは盤上をそっと見やり、淡く笑みを浮かべた。
「ここで打った碁が、私のプロ棋士としての原点。」
光志は一瞬だけ視線を交わし、短く返す。
「じゃあ、その原点を越える手を……次に会うときまでに用意しとく」
ユエは小さく息をつき、スマートフォンにぶら下がった、パンダのキーホルダーを見つめ背を向けた。
扉が閉まる音だけが、静かな部室に残った。
*
囲碁部には再び静寂が戻る。
盤の前には、光志と、幻影ちゃんの二人きり。
「……さて」
光志がため息をつきながら、目の前の盤を見つめていると、
「……ねぇ光志さん。そろそろ、“次の対局”でよくないですか?」
「お前、見てたのか」
「バッチリ。それで、AI的に言うと、最後の手は“推奨値0.002%の悪手”と出ています……」
「言わなくていい」
「でも、それもまた自由な一手。
正しくない手を、誰かが“正しかった”と思ってくれる──
人間って、不思議なゲームしていますね。」
光志はふっと笑った。
「お前ほど。……感情的なAIは、いなおいよなぁ。」
「ふふーん。名誉なことです!」
幻影ちゃんのモニターに、パン吉がくるくると回って映し出される。
光志は目を細め、その画面を見ながら言った。
「……もう少しだけ、このパンダ、借りとくわ」
十九路の盤上に、月明かりが差し込む。
夜はまだ明けない。