【第四局】決勝、十九路の夜
十九路の碁盤が、夜の照明に照らされて浮かび上がる。
国際囲碁ワールドカップU22、日本 vs 中国。
ここまで1勝1敗。
第1局――ユエがシェン・シンとの因縁の対局を制して、日本が先勝。
しかし続く第2局――加藤大河が中国の技巧派棋士と激突し、最終盤のヨセ勝負でわずかに競り負けた。
「あと1目……いや、半目くらいの差だった」
観戦していた多田が唇を噛んだように言った。
そして、今――最終局。
古賀光志 vs 魯 凰。
日本の3位、他国の状況によってはそれ以上を懸けた一局が、いま始まろうとしている。
「光志。あなたがやるべきことは一です」
控室で長嶺がそっと背中を押した。
岩田先生は無言でうなずく。光志が囲碁部に初めて顔を出した日から、すべてを見守ってきた恩師たち。
会場に入ると、空気が変わった。
中央に据えられた主役の卓。向かいに座るのは、魯 凰――AI至上主義を体現する中国の異端の棋士。
頬杖をつくように手を組み、静かに光志を見据えていた。
「……ようやく、君と打てる」
開口一番、魯 凰がつぶやくように言った。
「なんで、俺を選んだ?」
「好奇心。そして確認だ。君が“偶然の碁”ではなく、構造を超えた何かを持っているのかを」
開始の合図が鳴った。
白番は光志、黒番は魯 凰。コミは6目半。
初手三連星。光志は迷わず大模様を構築しにかかった。
布石は流れるように進む。中央を重視する光志の構想に対し、魯 凰は端から冷静に地を奪っていく。
*
観客席――
「光志くん、中央で構えてるけど……うん、攻める気満々だねぇ!こりゃ見てて面白くなるぞ!」
多田が茶目っ気のある笑顔で身を乗り出す。
「でも相手は魯 凰。中央型に誘って、あとで潰すのが彼の常套手段」
シェン・シンが腕を組んで言った。
「……だからこそ、面白いのよ。あの人の“碁”は、自由だから」
ユエの声には確かな信頼が宿っていた。
*
中盤。光志が打った一手が、場をどよめかせる。
五線沿いから三線に急角度で跳ね出す奇抜な一手。
「そこ……切れるのか?」
加藤が小さく唸った。
「通常の形なら悪手。でも、あの布石と全体図を前提にすると……効いてるんですか?」
長嶺が呟くと、昌覚が静かにうなずいた。
「彼の碁は、もう“説明できない”ところに来ています」
それでも魯 凰は崩れない。
局中で相手の打ち筋を学習し、自己最適化する“思考型AI”のような彼の碁は、光志の変則模様すらもデータとして取り込み始めていた。
(これは……やばいかもしれない)
終盤、地合いは黒やや優勢。
魯 凰の隅での冷静な手抜きに、光志の心臓が跳ねた。
(このまま寄せに入れば……俺は負ける)
光志は静かに盤面全体を見渡す。
その目が、中央右側の“意味がない”と思われた手筋に止まった。
そこに、ある“気配”。
(……読めない。でも……感じる)
彼はそこに石を置いた。
それは、AIが“打たない”と切り捨てる手――しかし、人間の“直感”が導いた一手だった。
魯 凰の指が止まった。
その手が、静かに震えていた。
「君……そこまで、読んでたのか?」
「読んでない。“感じた”だけだよ」
最終計算――
黒:74目
白:68目 + コミ6目半
→ 白番、古賀光志の勝利。
コミ差――たった半目。
*
「よっしゃああああっ!」
加藤が椅子を蹴るように立ち上がり叫ぶ。
「ぎりっぎり!けど、最高!」
多田も拳を突き上げる。
観客席のユエは、静かに瞳を潤ませた。
その隣で、シェン・シンがぽつりとつぶやく。
「……“完璧”は、たまに負ける。面白いわね」
「うん。でも、彼は、まだまだ強くなる」
ユエは微笑んだ。
盤面を見つめる魯 凰は、敗北を認め、静かに頭を下げた。
「……僕は、まだまだ“囲碁”を知らないのかもしれない」
ふと、彼の視線がユエのほうに向いた。
「彼女の目の前で勝ちたかった。僕の“正しさ”を証明するために……」
光志はぽかんとした顔で首をかしげたが、魯 凰は、それ以上言葉にせず、静かに席を立った。
*
その日の夜――表彰式。
優勝は中国。韓国が2位。そして日本は、3位。
日本は中国に“勝った”。だが総合戦績では、トータルで中国が上回った。
それでも、壇上に立つ光志の姿を見て――
観客席の最前列、本因坊が静かに立ち上がり、口を開いた。
「――あれが、十九路に差した日本囲碁の未来の光かもしれない」
「機械にも、理論にも、打ち崩せぬ“感性”の一手。あやつの中に、新しき風を見た」
隣の岩田もまた、感慨深げに言った。
「岩田先生。光志くんの一手、伝わりましたか……?」
「ええ。この日本から、もう一度、囲碁の神が芽吹くかもしれませんね」
舞台に立つ光志に、無数のスポットライトが降り注いだ。
十九路の夜が、静かに明けようとしていた。