【第三局】君と碁のある未来
「ユエ、今日はいつになく集中してたね」
ベトナム戦を終えた控室。光志が声をかけると、ユエは肩を小さくすくめた。
「……うん。でも、まだ途中だよ。大会も、私自身も」
静かな声だったが、その奥には何か強い決意が感じられた。
光志はユエの隣に腰を下ろした。
「お前さ、あのシェン・シンにも勝ったっていうのに、まったく浮かれてないのな」
「彼女は強い。あの対局、紙一重だったよ」
「そっか。でも、お前の碁……綺麗だった」
その言葉に、ユエは一瞬、驚いたように光志を見た。
「……ありがとう」
いつか彼と並んで対局したペア碁の記憶がよぎる。
あのときは、彼に合わせられず、敗北の苦さを味わった。
けれど、今の光志に気後れはない。彼の目は、かつてのように迷っていない。
「なあ、俺……お前と、また打ちたいと思ってる」
「今、一緒に大会出てるじゃない」
「そうじゃなくて――対局として。個人として、ちゃんと打ちたいんだ」
ユエは少し黙って、それから静かに笑った。
「……私も。そう思ってた」
言葉には出せなかった感情が、盤のように交差する。
*
その夜、選手村の中庭で光志はひとり、AI解析された棋譜をモニターで見つめていた。
「……この手。あの局面で……か」
終盤、ルー・ファンが指した一手は、一般的な人間の感覚からすれば“意味不明”にも思えるほど非直感的。
だが、AIによれば――完璧。
そこへ、後ろからユエの静かな声が届く。
「彼は、私の知る中で……最も“正確な碁”を打つ人」
「正確?」
「うん。方針も、構想も、全部が計算に沿っている。まるで、AIそのものみたいにね。彼の中では、“完璧”でなければ意味がないの」
光志は眉をひそめる。
「それじゃあ……自由なんて、ないのか?」
「彼自身は、自由である必要を感じてないと思う。“最善だけが美しい”って、昔から言ってた」
光志は無意識に自分の石の打ち方を思い返す。
「俺とは、真逆だな。形なんて気にしないし、読んでも読んでも、自信が持てないときは直感に頼るし……結局、勝ち負けより“面白いか”で打っちゃってる」
ユエは小さく笑った。
「でも、それが“あなたの碁”だよ。機械みたいな完璧じゃないけど――誰にも真似できないもの」
光志は肩をすくめる。
「ルー・ファンから見たら、きっと俺なんて“正しくない”打ち手なんだろうな」
ユエは少しだけ視線を遠くに向けて、言った。
「……たぶん、彼はあなたの碁を“肯定”はしない。でも、“興味”は持ってる。だから、あの人……あなたを指名したんだよ」
「……!」
光志の中に、静かに緊張が走る。
「彼は、自分にないものを見ると、否定しつつも惹かれていく。自分の“完璧”が崩れるかもしれないって、どこかで怖れてるんだと思う」
「お前、そこまでわかるのか……?」
「……昔、一度だけ、彼に勝ったことがあるの」
ユエの声がほんのわずか震えた。
「私の打ち方は、彼にとって予測できなかった。でも、その時の彼……盤を睨んだまま、震えてた。“間違い”を許せない彼にとって、“感情”で打つ碁は、きっと理解の外にあったんだと思う」
「でもね、光志。きっと彼は……私だけじゃなく、“あなた”も見てる」
「は?」
(まさか……魯 凰は俺の碁に興味を持ってる?)
「……試されてる。あなたが、この大会で“何を打つか”を」
光志は息をのんだ。
その彼が、次の対局相手――
「でも、私は信じてる。あなたの碁は、彼にもちゃんと届く」
夜風が、彼女の言葉をさらっていった。
「……そのためには... 私、決めたわ!」
彼女の声には迷いがなかった。
ロマンチックな意味ではなく、勝負師として、ライバルとして。
誰のためでもなく、自分の碁を信じて歩むという決意。
光志は、その背中を見つめた。
(あいつと、あいつの向こうにいるやつと――ちゃんと打つために、俺も進まなきゃならない)
そんな想像がよぎった瞬間、ユエが光志の方へ一歩近づいた。
「あなたと私が並んで碁を打てるのも、あと少しかもしれない」
その言葉は、夜の静けさに溶け込むように切なかった。
「……帰るの? 中国に」
「母が言ってた。“ユエ、あなたが帰らないなら、棋院の推薦は取り消す”って」
「なんだそれ……ひでぇな」
「ううん。私もわかってるの。日本にいられるのは、今だけかもしれない」
しばらく沈黙が続く。
「じゃあ、なおさらさ……最後に、俺と打ってくれよ」
光志の声は、どこか苦しげだった。
「ユエ。お前と並んで、囲碁部を立て直して、ペア碁して、いろんな悔しさも嬉しさも分け合ってきた。だからこそ、最後は……ライバルとして、一局、ちゃんと向き合いたいんだ」
ユエは光志の瞳をじっと見つめた。
「うん。私も、打ちたいと思ってた」
そして彼女は、小さくつぶやいた。
囲碁を選び、勝負の世界で生きると決めた彼女の、静かで、確かな決意。
夜空の下、二人はしばらく何も言わずに座っていた。
未来がどう転んでも――盤上でなら、きっとまた会える。
だから今は、それぞれの一手を信じて。