【第二局】白黒の戦場(ボード・ウォーズ)
「それでは対局を始めてください。」
静まり返る会場に、打ち初めの音が響く。
国際囲碁ワールドカップU22、初戦。
日本代表の第1ラウンドの相手は、技巧派揃いのベトナム。
その第一局、古賀光志は白番を持って盤についた。相手は、グエン・ヴァン・トゥ。ベトナム囲碁界の新星で、柔軟で多彩な布石を得意とする技巧派だ。
序盤、光志は模様争いに遅れを取り、何度も形勢をひっくり返されそうになる。
(焦るな。相手の碁を聴け……)
囲碁部の再建を後押ししてくれた岩田先生と、日々の努力を見守ってくれた長嶺先生、そしてユエという碁敵と過ごした時間が、光志の打ち筋を静かに変えていった。
自分の碁を押しつけるのではなく、対話としての一手一手を積み上げる。
中盤、光志は見事に一角を奪い返し、流れを呼び込む。
しかし、終盤のヨセで痛恨の読み抜け。
「日本、第一局、敗北――」
盤を見つめたまま、光志は小さくうなずいた。
(負けた。でも、ちゃんと打てた)
控室のモニターでは、加藤大河が第2局の準備に入っている。
同時に、もう一つの別ブロック――中国代表との対局の映像が映し出される。
その盤面に座っているのは、林 玥とシェン・シン。
*
「まさかまた、あなたと打つことになるなんてね」
「うん。私も、少しだけ……そう思ってた」
中国代表、シェン・シン。
かつてユエと同じ囲碁英才教育を受け、何度も競い合った因縁のライバル。
ユエが中国を離れ日本で囲碁を続けることになってから、中国にもでった今でも、直接手を交える機会は途絶えていた。
だが、今や中国女流棋士ナンバーワンとなった、シェン・シンにとって、林 玥は今も「越えたい壁」だった。
「……私、あなたにずっと憧れてたの。追いかけて、追いつけなくて、あの時の日本の地方大会で、一度だけ勝った。それが、全部。」
「覚えてるよ。あの時、私は……光志に合わせられなかった。」
シェン・シンの目が鋭く光る。
「ペア碁だから負けたって、言いたいの?」
パチッ――石音が鳴った。
十九路に、火花が散る。
序盤から激しい攻め合い。
シェン・シンは、鋭く打ち込んでくる。まるで「見て」と訴えるような石の連打だった。
だが、ユエは動じない。
盤上を流れるように渡り、緩やかに包み込むような構え。
(シェン・シン、あなた……強くなったね。でも)
ユエの打ち筋には、もう迷いがなかった。
中国時代の影を抜け、日本で磨いた“静の碁”。形にとらわれず、相手の力を受け、自然に返す。
中盤、シェン・シンが仕掛けた切断は失敗に終わる。
流れは完全にユエへ。
終局の一手を打った後、沈黙が流れた。
「……また、負けたんだ。わかってたのに、やっぱり悔しい。」
「私は……あなたと打てて、嬉しかったよ」
ユエの瞳はまっすぐだった。
比べるためでも、勝つためでもなく、ただ囲碁で向き合いたかった。それだけだった。
「……あなたは、私の後ろにはいないよ。ちゃんと、並んでた。今の碁、強かったから」
シェン・シンは顔を伏せ、小さく笑った。
「また打とうね。次は、勝つ」
「うん。またね」
*
その頃、ベトナム戦では――
加藤大河が二番手として出場し、ギリギリの接戦を制した。
「日本、第二局、勝利!」
チームスコアは1勝1敗。勝負の行方は、最終局へ。
そしてその盤に座ったのは、再びユエだった。
相手はベトナム代表の女子エース。互いに大模様を張る展開の中、ユエは徹底して冷静だった。
盤全体を見渡し、流れを読み、必要なら石を捨ててでも形を取る。
それは、まるで“水のような碁”。
中盤を抜けたあたりで、明らかに形勢が傾く。
終局後、対局相手は清々しい表情で手を差し出した。
「素晴らしい碁でした。あなたの石は、静かだがすごかった」
ユエは一礼してその手を取った。
そして――
「日本、第三局、勝利! 初戦、2勝1敗で白星スタートです!」
控室でそれを聞いた光志は、ふっと笑った。
「さすがだな、ユエ」
しかし、ユエは盤から顔を上げず、小さくつぶやいた。
「……でも、本番はこれから」
その視線の先にいるのは、次の相手。
光志と、もう一人の中国代表――魯 凰。
(あなたも、……きっと、試される)
静かに夜が更けていく中、世界の十九路は、さらなる熱を帯びていく。