【第一局】再会、あるいは決別
「林 玥選手が、日本代表として出場を希望……?」
会議室にざわめきが広がった。日本囲碁協会の幹部たちは一様に困惑し、その中心で一人、会長が額に手を当てていた。
「前代未聞だ……」
場の空気を破ったのは、若手理事の声だった。
「いくら日本での活動実績があるからと言って、国際大会の代表に、他国の育成下にある棋士を入れる?」
「 そんなこと、中国側が認めるわけが……」
「……それが、認めたんです」
年配の事務局員が一枚の書面を掲げた。そこには、中国棋院の公式文書が貼付されていた。
《林 玥選手に限り、日本代表選出を容認する》
その文面には、ただ一行、注釈が添えられていた。
《ただし、中国代表選手との対局が保証されること》
「つまり、条件付きの承諾ってわけだな……」
「対局相手の指定なんて、通常ルールではありえないですよ」
「しかし、日本がこのまま欠員のまま出場すれば、戦力的にもメンツ的にも苦しい。最悪の場合、棄権になる」
「……私たちに、選択肢はないのかもしれませんね」
静まり返る会議室。その中で、誰かがつぶやいた。
「林 玥、彼女は、どうして....」
*
「光志!」
その声に、古賀光志は反射的に振り向いた。
国際囲碁ワールドカップU22、開幕前日の合同練習会場。各国選手が静かに準備する中、ユエが歩いてきた。
白と黒を基調としたいでたちに、すっきりした姿勢と、変わらないまなざし。彼女が日本代表としてこの場所に現れたことは、現実味を帯びながらも、どこか夢のようだった。
「……本当に、出るんだね」
「うん。出るよ。だって、あなたも出るんでしょう?」
光志は小さく息を呑んだ。
「中国は、よく許してくれたね」
「……ちょっと、条件付きだけど」
彼女は苦笑いを浮かべた。
「私の初戦の相手は、もう決まってるの」
「誰と?」
「シェン・シン」
その名に、光志は思わず目を見開いた。
高校時代、ユエと光志が“ペアを組んで負けた”相手。そして、ユエの過去と誇りを知る宿命のライバル。
あのとき、ユエは悔しそうだった。悔しさと同時に、ユエの目にあったのは、シェン・シンに向けられた静かな火花だった。
(……そうか、あのときから、ずっと)
シェン・シンは、ただの実力者ではない。ユエが中国にいた頃から、互いに競い合い、比べられ続けてきた存在。彼女の碁に、陰に日向に追いつこうとし、並び立とうとしていた。
──その想いは、ライバル心であり、あるいは、執着にも近い。
「彼女は、今では、中国女流棋士ナンバーワン。私にとっても、あの時の借りを返すチャンスだと思う」
ユエの瞳は、静かな光を湛えていた。
その後ろで、中国代表の控え席に、ひとりの男が立っていた。魯 凰。その名を聞かずとも、光志にはすぐにわかった。
──あのときの、あの打ち筋。
同じく“ユエとペアを組んで負けた”相手。重厚な布石と、冷静無比な読みの応酬。まるで呼吸を奪うような戦いだった。
彼は今、そのときと変わらぬ静けさで、しかし一層鋭さを増した眼差しで、こちらを見ていた。
「魯 凰が、俺との対局を希望したって聞いた」
「うん。でも、たぶんそれだけじゃない」
ユエは一拍おいて言った。
「光志。あなたは、もう“見られてる”んだよ。棋士として。世界に」
その言葉には、尊敬と誇りが滲んでいた。
だが、光志はその視線の向こう、魯 凰の表情に、もうひとつの色を見た気がした。
──静かな敵意。けれど、それは単に碁の強さだけを競う眼差しではなかった。
(……あの人、ユエに……?)
言葉にはならなかった。だが、直感は告げていた。
魯 凰にとって、自分は「盤上の相手」であると同時に、「ユエの傍にいる男」でもある。
ユエはそのことに気づいているのか、気づかないふりをしているのか――その笑顔からは、読み取れなかった。
*
開会式の舞台に、6カ国の代表選手たちが一列に並んだ。
韓国、台湾、ベトナム、アメリカ──それぞれに個性のある若者たち。眼鏡越しに盤面をイメージしている者、音楽を聴いて集中を高めている者、誰かの言葉に笑う者。
そのなかで、光志とユエは静かに視線を交わした。
誰かと「並んで立つ」ことの意味を、初めて知った気がした。
「……この大会が終わったら、どうするの?」
ふと、ユエが言った。
「わかんないよ。たぶん、とりあえず囲碁部に顔出だしてみるかな?」
「……そっか。私のにも帰れる場所が、あるかな?」
そう言ってユエは、どこか寂しげに、でも優しく微笑んだ。
言葉は少なかった。
彼女がこの舞台に立ったのは、勝ちたいからでも、注目を浴びたいからでもない――
"あのときの借りを返すため?"
"光志のそばで、碁を打つため?"
"次の道を見付けるため?"
想いの答えは、十九路の上にある。
大会が幕を開ける。
再会と決別の物語が、盤面に刻まれていく。