【プロローグ】旅立ちの局面
「ギリギリだったな」
その一言に、古賀光志は力なく笑った。
結果発表の掲示板には、彼の名が確かにあった。日本代表選抜三枠中、最後の一つ。得失点差すれすれの勝率で、どうにか滑り込んだのだ。
目の前には、岩田先生の顔がある。囲碁部再建に尽力してくれた恩師だ。その背後には、その後、顧問を引き継いで、幻影ちゃんの教育係(?)でもある長嶺先生が、少し離れた場所で頷いている。
「君の成長には目を見張るものがある。でも、国際大会はまた別物だ」
光志の師匠でもある、本因坊 昌覚が、手綱を締める。
「はい……わかってます」
光志の言葉は、自信よりも覚悟に近かった。
──国際囲碁ワールドカップU22。
2年に一度開催される若手棋士を中心とした囲碁の国際大会。各国三名、総当たり形式で争われる団体戦で、日本は代表三枠を埋めるのに例年以上の苦戦を強いられていた。国内予選は過去最激戦と言われ、ネットでは「超新星世代」と揶揄する声もある。
その中で、光志は代表に名を連ねた。
しかし、彼の心をざわつかせたのはその次の知らせだった。
「──代表辞退?」
「そうなんだよ。二位だった浦島が、親の意向で急きょ辞退を申し出てきた。海外留学の準備に専念したいそうでな」
岩田先生が低く告げた。
「それで、繰り上がりは?」
「候補者は何人かいる。だが、どれも勝率だけでは判断がつかないらしい。これ以上延期すれば、日本は出場そのものが危うくなる」
「……!」
光志の背筋に寒気が走った。
国内で代表が決まらなければ、国際舞台に立つことさえできない。せっかく勝ち取った切符も、白紙になるかもしれない。
「協会では今、緊急会議が開かれているよ。あちこちから意見が飛び交ってる。“他の選手にチャンスを”派もいれば、“棄権すべき”という過激な意見もある」
その話は、あっという間に拡がった。
数日後、中国・杭州にある中国棋院の施設でも、そのニュースが耳に届いていた。
「──日本代表、欠員?」
そうつぶやいたのは、林 玥。
囲碁盤に向かっていた彼女の指が止まった。淡々と石を打ち続けていたシェン・シンが、怪訝そうに眉を上げる。
「気になるの?集中しなよ」
「……ごめん。少しだけ、席を外すね」
盤面に礼をして、ユエは静かに部屋を出た。中国棋院の高層階から見下ろす都市の風景は、どこか冷たく、光志のいる日本は、遠かった。
──光志。
名前を口にすることはなかったが、思いはそこにあった。
彼が代表になったことは知っていた。日本での選考状況も、こっそりとフォローしていた。彼の成績がギリギリであろうと、自分の目からすれば光志は確かに「強くなった」と思えた。
ただ、その努力が大会出場という形で結実しないとしたら──。
(光志の石は、ようやく響く音を持ち始めたのに)
囲碁は言葉を超える対話だと、かつて誰かが言っていた。ユエにとって光志の石は、不器用で、遠回りで、でもどこまでも誠実だった。
その石が打てない十九路の盤など、きっと寂しい。
自分にできることがあるとしたら──。
「私が、日本代表として...」
声にならない囁きが、心の奥から零れた。
日本代表として出るなんて、前代未聞だ。中国棋院、日本囲碁協会、どちらも簡単には首を縦に振らないだろう。
”彼があの場所に立つためなら。”
”……ちがう。”
”彼のそばで、彼の碁を見るためなら。”
その思いは、理屈ではなかった。熱でも、焦がれる恋でもない。ただ、同じ碁を打つ者として、あの十九路の彼方で、再び向かい合いたいという想いだった。
それはまるで、盤面の星のひとつに導かれるような感覚。
打つべき場所は、そこにある。
夜の都市に灯るネオンが、十九路の黒と白に重なって見えた気がした。彼の打つ石の響きが、遠く離れたこの街にまで届いてくるようだった。
(私が──動く時...)
その想いは、そっと胸の奥に降り積もる雪のように静かで、
それでいて、世界の景色を変えてしまうほどに、確かだった。