第3回 進まぬ時計、重なる影
第3回 進まぬ時計、重なる影
広島市役所の一角にある、時計塔の針は**午前8時15分**を指したまま、止まっていた。
戦後復興の象徴として整備された広場の中心で、その時計は「平和都市・広島」の象徴として人々に親しまれている。
しかし、佐伯鷹真——いや、今の彼である大村貴志にとって、その\*\*“止まった時刻”\*\*はあまりにも意味深だった。
「どうしてこの時間なんです?」
大村は、市役所広報課の職員にそう尋ねた。
職員は少し戸惑った顔をしながらも、こう答えた。
「ええと……実は、設置当時から壊れていたんですよ。この針が止まった時間がなんとなく定着して……いまでは“平和の象徴”みたいに言われてますけど、明確な由来はないんです」
明確な由来はない。
それはこの世界にとって、**原爆が存在しない証明**でもあった。
——この世界には、**“午前8時15分”という記憶そのものが存在しない**。
佐伯はぞっとした。
この街では、人々が**意図せず“あの瞬間”に最も近づいているのに、誰一人として気づいていない**。
平和都市。被爆していないのに、そう名乗る街。
その中心に据えられた、記憶の空白。
街を歩くと、「平和公園」なるものはあったが、彼の知るそれとは全く違った。
白を基調にした清潔なデザイン、慰霊碑はなく、噴水と芝生が整備された市民の憩いの場。
誰もがスマホのような機器で自撮りをし、観光客は「広島らしいから」という理由でこの公園を訪れている。
**記憶がないのに、記号だけが残されている。**
夜。大村は、広島平和新聞社の資料室に潜り込んだ。
「原爆なき終戦」の歴史を読み解くためだ。
1945年8月、日本はポツダム宣言を条件付きで受諾。
アメリカは、原爆投下を中止。かわりに、長期的な本土封鎖と絨毯爆撃で日本を屈服させた。
天皇のラジオ放送による終戦は、数週間遅れで達成されている。
その文書の末尾に、佐伯は一つの違和感を見つけた。
——「原子兵器の威力が示されなかったことを、遺憾とする」
それは、連合国の内部文書の一節だった。
つまり、**この世界では、原爆は「使われなかった兵器」であり、いまだ人類の“想像の外”にあるもの**なのだ。
そのとき、ふとページの隙間から、古びた紙が滑り落ちた。
一枚の白黒写真。
そこには、彼がこの世界では見たことのない——
**焼け野原の広島**が映っていた。
崩れた建物。黒こげの木々。骨のように立ち尽くす鉄骨。
そして、誰かの手書きでこう書かれていた。
《1950年、もうひとつの広島》
《この写真は処分予定。閲覧不可》
大村はその場に凍りついた。
「……なぜ、これがある」
その写真の中には、明らかにこの世界のものではない、
\*\*“原爆が落とされた広島”\*\*が写っていた。
存在しないはずの記憶。
語られなかった事実。
進まない時計と、止まったままの時間。
この世界に、何か**大きな矛盾**がある。
——“誰かが歴史を書き換えた”のではないか。
そう思った瞬間、激しい頭痛に襲われた。
視界が揺れる。耳鳴りが鳴り止まない。空間が、崩れていく。
佐伯鷹真は、現実へと引き戻されつつあった。
それはこの力のルール。ひとつの“有り得ない世界”の滞在時間には限界がある。
目の前の写真がぼやける。
最後に彼は、それを懐にしまいながら、口の中でつぶやいた。
「……もしかしたら、“落ちなかった”んじゃない。
“落とされたことを、消した”のかもしれないな」
(つづく)
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※この作品はフィクションです。実在の歴史、政治的主張とは異なる場合があります。
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