第2回 無傷の都市、揺れる帝都
第2回 無傷の都市、揺れる帝都
広島の朝は静かだった。
いや、「静かすぎた」と言うべきかもしれない。
大村貴志として目覚めた佐伯鷹真は、朝刊を広げながら、街を歩いていた。
活気のある表通り。整備された路面電車の軌道。焦土の記憶も、焼け野原の風景も、ここにはない。あの8月6日の惨劇は、この世界には“起こらなかった”のだ。
新聞の一面には「帝都再軍備論、再燃」とあった。
GHQによる統治はすでに数年前に終わっており、日本は再び独立国家として歩み始めている。だが、背景にあるのは、「未使用の核兵器を持つアメリカ」と「核保有を進めるソ連・中国」との緊張関係だ。
日本はそのどちらにも属さず、軍を持たず、ただただ怯えていた。
——原爆が落ちていない代わりに、「原爆の力」を心の底から恐れる体験をしていない。
この世界の人々は、戦争の終結を“外交の力”と“天皇の決断”によるものと認識しているようだった。広島・長崎の被爆という強制的な終焉がない分、「あの惨禍」が想像の中でしか語られていない。
そのためか——
「なぁ、大村さん、聞いたか?東京の連中、本気で核武装に前向きらしいぜ」
同僚の記者・高倉が笑いながら言った。
「非核三原則? あんなのは建前だよ。むしろ“持ってない方が危ない”って論調のほうが多い」
「……冗談だろ」
「いや、本気だ。実際、戦争の“抑止力”がなかったからこそ、今も冷戦下のアジアで日本は完全な“属国状態”だってさ。東と西の間で、どっちつかず。独立国なのに、実質、外交も軍事も制限だらけだよ」
佐伯は、ゾクリと背筋に冷たいものを感じた。
歴史は強制的に終わるからこそ、“終わった”と信じられる。
けれど、ここでは「終わりきれていない」。戦後処理も、平和教育も、国家のビジョンすらも曖昧だ。
その夜、新聞社の編集会議で、「日本の自主防衛をめぐる連載企画」が提案された。
編集長は言った。
「大村、お前、広島生まれだったよな? 次の特集は“平和都市・広島の真意”だ。いいか、この街が本当に平和を象徴するなら、核武装の是非にどう向き合うのかを問う必要がある」
つまり、「お前が書け」ということだった。
佐伯——いや、大村貴志は黙ってうなずいた。
断る理由がなかった。
部屋に戻った彼は、深夜のラジオをつけた。
スピーカーから流れるのは、帝都・東京の政治討論番組だった。
《日本が核を持てば、対等な外交ができる——》
《被爆国という自意識に縛られているのは、幻想ではないか——》
《真の独立国家として、もう一度武装するべきだ——》
その言葉は、まるで別人の口から出ているように感じた。
いや、もしかしたら、それが“普通”なのかもしれない。
原爆を落とされなかった世界。
あの日の絶望がなかった日本。
そこに生きる人々は、過ちを「知っていない」。
そしていま、平和都市・広島が、再び「戦力の象徴」として利用されようとしていた。
佐伯の胸に、得体の知れない焦燥が渦巻いた。
“この世界の人々は、これからそれを選ぼうとしている——。”
それが、いちばん恐ろしかった。
(つづく)




