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第1編:『有り得ない世界 ― 原爆なき世界編 ―』  作者: 蔭翁


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第1回 目を閉じて、あの日へ

この物語は、歴史に「もしも」があったなら——という仮定をもとに進むフィクションです。


第1編のテーマは、「もし原爆が落とされなかった世界」。


本作の主人公・佐伯鷹真さえきたかまさは、ある日突然、“歴史の一部が異なる世界”に転生する力を得ます。

舞台は、広島に原爆が投下されなかった戦後日本。

そこに待っていたのは、平和か、混沌か、それとも別の形の地獄か。


本編では、歴史を扱いながらも、特定の思想や立場に偏らず、

「現実とは何か」

「選ばれなかった未来に意味はあるか」

という問いを中心に描いていきます。


読後、何か一つでも考えるきっかけをお届けできれば幸いです。


※この作品はフィクションであり、歴史的事実や人物、政治的立場を肯定・否定するものではありません。

※史実の描写にはあえて差異や虚構を含めています。

第1回 目を閉じて、あの日へ

 蝉の声が、テレビのスピーカー越しに響いていた。

 8月6日、午前8時15分。広島原爆投下の瞬間を再現する映像が、今年もまた特番の中で流れている。モノクロの画面に、爆風で吹き飛ぶ街並み。焼けただれた人々。照り返す炎。語られる証言の一つひとつが、過去ではなく「いまもなお現在進行形」なのだと訴えてくる。


 佐伯鷹真さえき たかまさは、冷房の効いた部屋の中で、それをぼんやりと見ていた。

 大学で歴史を教えていたのは数年前の話。いまは退職し、自宅で執筆や講演の準備をする程度の生活。理由はいくつもあるが、いちばんは——疲れてしまったのだ。


 「何度教えても、何度伝えても、誰も“本当のこと”なんて知りたがらない」

 そう思ったのは、ある意味で敗北だった。


 テレビでは、司会者が「もし原爆がなければ戦争は終わらなかったのか」という議題を、大学教授とジャーナリストにぶつけている。

 茶番だ、と鷹真は思う。

 歴史に「もしも」はない——それは彼が、何百回と学生たちに語ってきた言葉だった。たとえ思ったとしても、それはただの空想にすぎない。だからこそ、考えてはいけない。考えたら、戻れなくなる。


 だが、その日。

 彼は、考えてしまった。


 もし、原爆が落ちなかったとしたら。

 あの朝、爆撃機が引き返していたら。


 部屋の窓からは、真夏の空が広がっていた。

 雲ひとつない青。静かで、美しい、どこまでも続く空。

 ——あの空の下で、あの日の人々も同じように空を見上げていたのだろうか。


 佐伯は目を閉じた。

 眠くはなかった。ただ、思考を閉じたくなったのだ。

 気づけば、世界がぐにゃりと歪んだ。


 * * *


 目を開けたとき、蝉の声がリアルに耳を打った。


 ——暑い。

 額に汗が滲む。空気が重い。

 まぶたを上げると、木造の天井があった。古びた扇風機が軋む音。聞こえるのはラジオの雑音と、子どもたちの遊ぶ声。


 「……ああ?」

 思わず声を漏らした自分の声が、いつもより若い。いや、それよりも違和感の正体は——


 服が違う。部屋が違う。腕が違う。

 鏡を覗けば、そこには別人の顔が映っていた。


 机の上に新聞があった。日付は、昭和26年(1951年)8月6日。

 彼はその日、**大村貴志おおむら たかし**という名の新聞記者として目覚めたのだった。


 部屋の窓を開けると、そこに広がっていたのは——

 焼け跡ではなかった。

 広島は、無傷だった。


 街には高い建物が立ち並び、軒先では朝の準備に忙しい人々が行き交っていた。市場には子どもたちの声、走る市電、立ち上る湯気。


 「原爆が……落とされなかった?」


 呟きは風にさらわれた。

 だが、彼の胸にはすでに確信が芽生えていた。


 ここは、“もしも”の世界だ。


 「……まさか、こんなにも現実味があるなんてな」


 現実は確かに変わっていた。

 原爆は落とされず、広島は生きていた。

 けれど、だからといって、この世界が「正しい」とは限らない。

 彼にはまだ、それを知るすべはなかった。


 だが、すぐに気づくことになる。

 この無傷の街には、別の種類の傷が深く根を張っていることに——。


(つづく)


※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・歴史的出来事とは異なる表現がありますが、歴史への理解を深める一助として構成されています。



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