フィオナさまは退屈がお嫌い
戦士ガラ・バルカと彼が率いるバルカ一家による他国軍を凌いでの西方迷宮攻略達成から、王都ではパーティーが頻繁に開かれていた。きらびやかなシャンデリアの下、祝賀ムードで社交にいそしむ紳士淑女。その中で一人、フィオナ・グランバートンはうんざりしていた。
「まぁ……なんて可憐なの」
「本日も輝かんばかりの愛らしさですわ……」
「まるでおとぎ話の妖精のようね」
扇子で口元を隠した貴婦人らが囁く。未婚の男性たちは彼女をいつダンスに誘おうか、エスコートに立候補しようかとそわそわしながら隙を狙っている。
しかしフィオナは息が詰まるほどの退屈を奥歯にむずむずと噛みしめていた。
フィオナが桃色の唇から「はぁ……」とため息をこぼすと、ごく小さな声で後ろを付き従う少女が「お嬢様、もうしばしご辛抱くださいませ」と耳打ちをした。
「もういいじゃない。関係のない方々が、いくつ祝杯をあげるつもりなのかしら」
「何事にも理由が必要ですから……」
そんなことはわかっている、と微かに首を横に振る。薄紅色の柔らかに波打つ髪がふわりと揺れた。
「だってレナ、つまらないでしょ。あなただって」
「わたくしは常にお嬢様に全神経を集中させていますので、退屈とは無縁でございます」
「まあ。羨ましいこと」
彼女は優雅な所作でそばの使用人にグラスを渡し、その手を頬にあてた。何やら憂うお姿も……と周囲には抑えきれないざわめきが広がる。
「あの崖の上の建物が見える?」
ちらりと窓を振り返ってレナに問う。
「……ええ。……お嬢様?」
「あれ、廃教会なんですって。面白そうじゃない?」
「お嬢様、やめてください」
「そう。じゃあ今日は、あっちはやめるわ」
そう言うやいなやフィオナはたおやかに礼をした。楽しゅうございました、と微笑んで周囲に会釈をし、そのままふらりと会場を後にしたのである。
「あっちはって何ですかぁ!お嬢様、どちらへ行かれるおつもりで!?」
「面白そうなところよ!」
「なりません!なりませんったら!」
伯爵家の馬車をこそこそと素通りし、どこに隠していたのかハイヒールを履き古した革靴に履き替え、ドレスの重みをものともせずフィオナは走っていた。おまけに半泣きのレナもそれを追って走っていた。止められないのだ。侍女のレナにとって彼女は迂闊に腕をつかんでいい相手ではなく、そして口で言って止まる相手でもなかった。
「ちょ……あの、本当に、どちらへ!?」
フィオナは無邪気に目じりを下げ、走った。明らかにタウンハウスの方角ではなく、歓楽街へと。
☆
「ねぇレナ!出場者の枠、まだ空いているそうよっ」
汚い飲み屋の、そのさらに薄汚れた地下は怒声と歓声と悲鳴、それから熱気で満ち満ちていた。決して広いとは言えないリングの周りを階段状の座席が取り囲んでいる。猛獣と男が対峙している。ぶつかり合い、土埃が舞い、両者への声が飛ぶ。決着にて紙束が飛ぶ、銀貨が飛ぶ。ここは違法の地下闘技場である。
なぜ伯爵家ご令嬢がそんな場所を知っているのか。彼女が退屈を一番に嫌うから。それ以外にはなかった。
「わたくしも出てみようかしら?」
真上から魔道具がじりりと照らすのは戦う者たちのみで、観客席はほとんど互いに顔もわからないほど暗くなっている。ゆえにフィオナの美貌とあからさまに貴族が着るドレスが目立たなかったことだけが、レナにとっての救いだった。他に救いなど何もなかった。
「おやめください、殺されてしまいます!」
わたくしが、旦那様に。いえその前に親父に!レナは泣きすがる。
「お嬢様の真珠のようなお肌にかすり傷ひとつつけでもしたら、わたくしの首が離れてしまいます……この体から……」
ぐすぐす。実際に想像してしまったのか、ぽろぽろと涙をこぼしながら彼女は懇願した。パーティーに同行するため用意された質素なドレスの袖が濡れていく。
「だって面白そうなんだもの」
それをものともせず、人形も顔をそむけるほど愛らしい相貌をにこりと歪ませてフィオナは言った。侍女は跪いて祈るときと同じように手を組み、懇願した。
「お願いですフィオナさま。わたくしが、レナが出ます!だから……フィオナさまはレナに賭けてください、ね?面白いでしょう?すっごく、面白いですよね……!」
嗚呼、どうしてこうなってしまったのか。大男と二人、光球に照らされたレナはざり、と土を踏みしめて遠くを見た。その視線の先は真っ暗で、けれど伯爵家のご嫡女さまが上機嫌で手を振っているのがわかった。
「嬢ちゃん、逃げんなら今のうちだぞ」
頬をつうと涙が流れていく。槌が振り上げられている。もうゴングが鳴ってしまう。拭っている余裕はなかった。
「いえ、退けぬわけが……あるので」
深く息を吐く。その語尾は鐘の音と歓声にさらわれ、眉をひそめた男の耳に届くことはなかった。
一歩目が早かったのはレナだった。彼女がトンと飛び上がり、身をかがめた男を通り越したように見えたその瞬間。ブーツの底が地面に降り立つと同時に男は倒れ伏した。
時が止まる。
誰もが首を傾げ、目を凝らした。
その空間を再び鐘の音が切り裂いた。
「勝者っ!レナーテ!!」
登録の際に咄嗟に名乗った偽名が叫ばれる。途端に響く声と音は耳をつんざくほど、地がうなるほどだった。
今も泣いている彼女の名はレナ・バルカという。さて戦士ガラ・バルカとは何を成し遂げた人物だったか。グランバートンの爆弾につけられた侍女は、正真正銘の戦場育ちであった。
それからというものレナは全身刺青のならずもの、二刀使いの元傭兵、鉄球を振りまわす脱獄犯と、次々となぎ倒し勝ち進んでいった。さぞ上ではものすごい金額が動いていることだろうと恨めし気に睨むぽっと出の少女に、会場は狂気にも似た興奮をあらわにしていた。
「さあ本日最終決戦!買った買った!」
「無敗の牙に沈むこと、光栄に思え」
「お手柔らかに……」
控えめな目元と鼻を赤く染めた少女が足を肩幅に開く。ドレスは土に汚れ、ところどころ裂けていた。今か今かと鐘を待ち、大勢が息をのむ気配がする。
ガン!暗闇にいる者たちが一斉にこぶしを振り上げ、いけ、やれ、と叫んで熱狂に包まれる。
「舐めんじゃねえ!」
「その牙で舌を、噛みますよ」
跳ぶかと思われたレナが足元へと即座に滑り込み、顎を真下から蹴り上げた。
「ガ、っ」
狙いが定められないまま振り下ろされた爪をひらりと避ける。腿に括っていた革の鞘からダガーを抜き、首元を狙って今度こそ跳んだ。
「ッ!」
獣人はチリ、と感じた殺意に反射で裏拳を繰り出す。レナは何やら気づいたように目を見開くと舌打ちをして手を少し引き、その腕に刃をひっかけて深く切り裂き前へと逃げる。脚を開いて着地する。息を吸う。
「そうだった、お嬢様が見てる」
「あァ!?」
「死骸になるさまはさすがに教育上お見せできない!」
何を言っているのかわからない獣人の男は隙かと切られていない腕を振りかぶる。レナの手には先ほどまでより刃渡りの長いナイフが増えており、向かってくる手のひらにそれを突き刺した。ギャオオと悲鳴を上げた彼の反対の肩を強く蹴って転がすと、手の甲から出た刃先を地面へ突き立てた。すかさず膝を踏みつぶし馬乗りになって残ったダガーを首筋に添え、レナはぐすんと鼻をすすった。
誰彼も雄たけびのように声を上げ、荒々しくゴングが叩かれた。
顔を上げた先では身を乗り出すようにして手をたたき、「レーナー!おめでとーう!」と心底楽しそうにきゃらきゃら笑うフィオナがいた。
「フィオナさま──」
「そこまでだ!」
どんと大きな音を立ててあらゆる扉が開き、観客席に揃いの鎧を身に着けた屈強な男たちがなだれこむ。過去にない盛り上がりに対応したか、誰かの通報があったか、王国騎士団のお出ましだった。
「この闘技場は違法である!全員、手を挙げて動くな!」
レナは咄嗟に立ち上がるとフィオナのもとまで最短距離で駆ける。
「お嬢様、失礼します!」
有無を言わさず横抱きにして足を踏み出した。
☆
「ああ、おもしろかった。また来ましょう」
「二度とごめんです!」
フィオナはレナに抱えられて夜道を移動していた。返り血や土で汚れているそこを気にも留めず、首元に頭を預けている。わずかな星明りを浴びる彼女はシャンデリアの下にいたときとはがらりと表情を変え、それはそれは機嫌よく、深くたっぷりと呼吸をしている。
「途中の大男、話に聞くゴーレムのようではなかった?」
「ゴーレムのほうがやっかい……でございます」
追手の気配もなく、スピードを落として息と口調を整える。冷たい夜風が火照ったレナの目を冷やしてくれていた。
「あれは痛みを持たず、人と違って損傷しても止まりませんので」
「そう。ふふ……面白いわ。もっと聞かせて、レナ」
「……なりません。お嬢様の好奇心を刺激すると、固く禁じられております」
朝日に押しのけられて、東の空から夜のとばりも逃げていく。そろそろ屋敷が見えてくるころだ。落ち着けば落ち着くほどいったいどんな説明をすれば命が助かるのかという思いが侍女の頭を占めた。
「あら、じゃあこの目で見に行くわ」
「なりませんったら!」